三笑会

三笑会は、平成30年6月1日~陶芸活動と陶芸教室、喫茶室、自家野菜販売、古美術・古物商経営を総合的に活動していきます。

「ブラリ鹿児島」その9

2021-02-15 23:08:41 | 日記
「ブラリ鹿児島」その9

 城山の麓には西郷隆盛像もあるが、西郷隆盛終焉の地を示す記念碑もある。明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、 薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は 腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われている。(満49歳)
 また、西郷が最後の5日間を過ごした洞窟もこの近くにあり、市内の至る処に西郷ゆかりの地を示す案内板が建っている。これらを見ると、西郷が今なお多くの鹿児島県民から尊敬され、そして愛されていることが良く分かる。



「ブラリ鹿児島」その8

2021-02-15 21:48:11 | 日記
「ブラリ鹿児島」その8

 鹿児島市内にある城山周辺を散策してみたい。まずは、西郷隆盛像から。鹿児島県観光サイトには、「江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、突然職を辞めて鹿児島に帰郷。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃しました。没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m。」とある。
 私は、かれこれ30年は西郷隆盛がどのような人物であったかと思案し続けているが、未だに結論が出ない。大村益次郎は、「いずれ足利尊氏ごとくの者が九州から攻め上がってくる」と喝破したというが、西郷と大村では明治維新に果たした歴史的役割が違うと思う。大村は、西郷、大久保、高杉、坂本らの後に続いた人物で、彼の力で大政奉還が成就するとは思えない。



「ブラリ鹿児島」その7

2021-02-15 20:39:37 | 日記
「ブラリ鹿児島」その7

 鹿児島本線を南進すると、温泉で有名な指宿に至る。枕崎や開聞岳は、指宿よりも先に進んだところに位置している。昨年の11月には知覧に行ったことから、今日は指宿に行ってみようと妻と二人で列車に乗り込んだ。
 九州は至る処に有名な温泉地があり、無名な温泉地まで含めるとどれだけあるのか見当がつかない。そうした九州においても指宿は全国的にも有名な温泉地であり、指宿駅前は活気に溢れているのだろうと想像して列車を降りてみた。
 するとどうだろう、駅前から海に向かって真っすぐに伸びる商店街は閑古鳥が鳴くようで、シャッター街といっても差支えのない有様だった。これには正直驚き、過疎高齢化に起因するところの地方の衰退と疲弊の現実を突きつけられてショックだった。指宿温泉のホテル群がある場所は駅とは少し距離があったと思うが、街全体としてのパワーが落ちていることは間違いがないと思う。



「ブラリ鹿児島」その6

2021-02-15 14:38:00 | 日記
「ブラリ鹿児島」その6

 肥薩線は鹿児島県隼人から熊本県八代を結ぶJR線で、吉松駅を経由することになっているが、2020年7月の大水害のため熊本県の肥薩線では、鎌瀬-瀬戸石間の「球磨川第1橋梁」と、那良口-渡間の「第二球磨川橋梁」が流失したうえ、盛り土や線路地盤が流出するなど計65件の被害を確認したことから、現在、八代から吉松までが不通になっていると聞いた。
 私が、吉松~人吉一帯にこだわるのは、今から50年近く前に読んだ松本清張の「西郷札」の影響で、薩摩軍がこのルートを通って撤退したことに長い間関心を抱いていたからだ。吉松駅の待合室には、吉松~人吉間を走ったSLの写真が大きく飾られていた。一日も早い復旧を望みたいものである。



「ブラリ鹿児島」その5

2021-02-15 13:45:53 | 日記
「ブラリ鹿児島」その5

 隼人駅で日豊本線から肥薩線に乗り換え、霧島連峰を奥深く入っていくと霧島温泉駅がある。霧島温泉は、京都伏見の「寺田屋事件」で負傷した坂本龍馬が、妻おりょうと温泉療養のためにやってきたことで有名である。
 日本最初の新婚旅行としても有名で、二人は霧島神宮に参拝したり、霧島ツツジに感動したことなどが霧島温泉郷の随所で案内されている。