黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

ひめちゃんちの紫陽花コレクション

2019-06-23 23:12:54 | 日記
獅子丸は、ひめちゃんの準備ができるまで、ミニドッグランの外でちょっと待っていました。
おかあさんとひめちゃんがやって来て、獅子丸のリードを持とうとしたその瞬間、彼は逃走しました。
長いリードが付いていたので、ちょっと心配です。
ひめちゃんと追いかけましたけど、見失いました
ひめちゃんがお散歩を終えて帰ってくると、玄関前の椿の木に獅子丸はつながれていました
あちこち一人でお散歩して帰ってきたのです
おいでといわれて素直に御用になったそうです。
まあテリトリーの範囲だったようで、目撃情報も寄せられました。
ひめちゃんの家族にはこんな大胆なやつはいません。
まるで、三四郎の再来です。
黒柴初代の三四郎は、一昨年の夏、17歳の犬生を全うしました。
ひめちゃんちで、こんな脱走劇をやったのは、三四郎と獅子丸です。
アカの他人のはずですけど。





この冬は厳しい冬で、傷ついた紫陽花の花芽がたくさんありました
それなのに、枇杷(びわ)はたわわに実りました



まださほど大きくはない木ですけど、たくさん実りました
不思議な事に、鳥につつかれることもほとんど無く、人間がほぼ完食しました

紫陽花の定番というか、古くからの品種は、花芽の付いた枝の多くが枯れてしまいました。
でも、生き残った品種も色々あります。


お名前知れずですけど、爽やかです




「おたふくあじさい」です。
生育旺盛で、挿し木苗をあちこちに配りました




地植えのモナリザです。
たくましく咲いてくれます




生育旺盛でかなりの大木(?)になってます
切り花に重宝しています
セレナーデかな?




グリーンドラゴンです。
ちょっと紫陽花ぽくないですけど。




今日草を刈り取り、救出ました






こちらも今日救出です。
来年が楽しみです




お名前知れずです。
でも、よく生き延びてくれました






斑入り葉の紫陽花です。
花芽がけっこう痛みました。




6月6日の郷右衛門忌で配った鉢植えと同じです。
一鉢だけ花芽が付いていたので、とっておいたのです。





青花で絞りが入るはずでした。
青花の肥料を与えたはずですけど、不思議です。
でも、赤花もそれなりにいいでーす


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将門の故郷に行ってきました・総集篇 (坂東市本将門記の新皇宣言)

2019-06-23 15:19:19 | 下総國
獅子丸はハーネスを使い始めました。
ブラッシングの途中で、スッポとぬけてしまって、ミニ逃避行を体験しました
黒柴初代の三四郎&サマンサのお散歩の時に、あまりにもスポスポ首輪が抜けるので、ハーネスを使い始めたのです。
嫌がるふうもなく、ごく自然に付けています



この前と同じに諏訪神社の鳥居の脇です。
ひめちゃんは、紫陽花から離れてしまって、紫陽花犬の写真は撮れませんでした。






先日(平成31年1月26日)、将門のふるさと坂東市に行ってきました。
『坂東市本将門記』や将門関係の図録を購入してきました。

とりあえず、『坂東市本将門記』の新皇宣言(新皇即位)を確認です。





新皇即位

時に一昌伎(カンナギ)有り。云へらく、八幡大菩薩の使いぞと憤(クチバシ)る。朕が位を蔭子(オンシ)平将門に授け奉る。其位記に左大臣の正二位管(菅)原朝臣の霊魂表すらく右八幡大菩薩八幡の軍を起して 朕が位を授け奉るらむ。今須く卅二相の音楽を以て早く之を迎え奉るげしと、爰に将門頂に掲げて再拝す。況んや四の陣を挙げて立ちて喜ぶ。数千併ら伏し拝む。又武蔵守并に常陸掾藤原玄茂等其の時の宰人(サイジン)と為(し)て、喜悦すること譬へば貧人の富を得たるが若し、美咲ること宛ら蓮花の咲き敷くが如し。斯に自ら製して諡号(イミナ)を奏す。将門を名付けて新皇と曰ふ。


将門は、下野の国府を襲った後、天慶2年(939)12月15日に上野に移りました。
旧暦の12月15日は、今年は1月20日です。
12月19日(今年は1月24日)に、上野国府を占領、国庁に入ります。
そこで、板東諸国の除目を行います。

時に一昌伎(カンナギ)有り、このとき一人の巫女が現れます。
そして、自分は八幡大菩薩の使いだといい、将門に朕の位を授けると言うのです。
八幡大菩薩が位を授けにやってくるのです。
将門は、うやうやしく頭上に両手を高く挙げて位記(位階を授ける際に与える文書)を受ける動作をしました。
みんな大喜びです。
数千人が伏し拝みました。
ここで、自分たちで作成して諡号を奏上、将門を名付けて新皇といった。


将門の新皇即位は、ちょうど今頃の季節だったのです
将門のふるさと訪問は1月26日でした

はたしてこの記述が本当か、気になるところです
『坂東市本将門記』の解説では、

この新皇叙任の一幕には、上野国府での実際の出来事か、『将門記』作者の創作か、興世王や玄茂らの演出説、宴会の余興説など、種々の見解がある。

かなりドラマチックで、盛り上がります
『将門記』に絶対必要な場面です。
上野の国府が舞台なのですね
上野の国府はまだその姿がはっきりしないということですけど、一応宮鍋神社のあたりに国府の政庁があったと言われているようです。


この後新皇は武蔵相模に至るまで巡回し、国印と鍵を奪い国司を追放し在庁官人に政務を行わせます。
本拠に戻り、すぐに常陸に出陣するも、敵の動静はつかめなかった。
幾日も敵の動静を耳にしなかったので、諸国の兵達をみな国に返してしまった。

農繁期が近づいていたのです。

そこに、平貞盛や藤原秀郷は、大軍を率いてやってくるのです。
そして、天慶3年(940)2月14日、国王神社のあたりで流れ矢に当たり波乱の生涯を閉じたといいます。
旧暦の2月14日は、今年は3月20日です。


藤原秀郷は多くの武士団の祖となります。
葛塚城にいた山上氏も、秀郷の子孫です。
葛塚城堀之内に住んでいる、ひめちゃんちの人間は山上氏とは関係ないので、秀郷の子孫ではないみたいです。

『将門記』を、駆け足で見てしまいました。
これから、じっくり読み返します
図録は暇を見付けてはくりかえし眺めてます




追記

今回久しぶりに、坂東市で手に入れた資料と再会しました。
今回もじっくりとはいきませんでしたけど、折りに触れて読み返したいと思います。

最初は、はて、史料はどこに行ったかなと心配しました。
かわいいマスコットキャラクター将門くんの袋にはいっていました




もう一度国王神社は訪れたいし、周りにいっぱいある史跡も訪れたいものです




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将門の故郷に行ってきました・総集篇 (将門終焉の地?国王神社)

2019-06-21 16:44:34 | 下総國
ひめちゃんと獅子丸は、東の牧場の方によくお散歩に行きます。
ヤギさんは、いつもより道近くいました。





獅子丸は、もうやたら吠えることもなくなりました。
でも、相手の実力を推し量るように、じっと見つめます。
ヤギさんも、しかりです。
ヤギさん、大きくなりました







国王神社をナビに入れて、板東郷土館ミューズ(さしまミューズ)にお別れです。
この次の将門関連企画展の時には、また来まーす

さて、まったく地理感覚がないのでナビのいう通りに進みます。




国王神社と大きな表示があります。
駐車場に隣接して地域の集会所があります。

駐車場から、超クラシックな社殿がみえますけど、鳥居から入り直します。
鳥居前に説明板がありました。



祭神は平将門である。
天慶三年(940)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
本社に秘蔵されている将門の木造は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが(中略)本殿と友に茨城県重要文化財に指定されている。


地理不案内なので、北山がどこだかわかりませんけど、この付近らしいです。

国王神社HPによると、

『神社分限帳』には、“平将門が討たれた所にその霊を祀った”と記述があります。
天慶3年2月14日、藤原秀郷・平貞盛連合軍との戦いの最中、流れ矢に当たって落命した将門公の「終焉の地」が、この境内であると伝えられているのです。


不思議な鳥居です




奥に、超クラシックな社殿が見えます。
木漏れ日の道を進みます。



悠久の時間の中にいる雰囲気です
今まで詣でたことのない、超クラシックで荘厳な拝殿です



木漏れ日が、独特の雰囲気を作ってます。
例の木像は、ここにはないようです。

境内に、耐火建築かなと思うお堂が、ありました。
もしかしたら、そちらに鎮座しているのかも知れません。
ちょうど、桐生の崇禅寺(そうぜんじ)で、800年もののご本尊は本堂裏の耐火建築のお堂に鎮座しているように


横に回ってみてびっくりです



本殿も拝殿と同じように、超クラシックです

HPによると、

拝殿は古代から中世期の建築様式を表してしていますが、江戸中期・延宝3年(1675)の建立です。また、本殿は文化14年(1813)の再建といわれています。

拝殿が変わっているのは、古代から中世にかけての様式だからなのですね



境内に青面金剛が、ぽつんとありました。




お正月は、こういう風に飾るのですか
左から「言わざる、見ざる、聞かざる」ですね
右足を挙げて邪鬼を踏みつけています。
右足だけこんなにあげているのも、珍しいです


不思議な感覚で境内を散策しました




HPには、

祭神に将門公を戴く国王神社の歴史は決して平坦なものではありませんでした。

とあります。

まとめると、
朝敵の認識が解かれたのは江戸時代であるが、明治政府が再び問題視、評価が回復したのは第二次大戦後の昭和末年を待たなければならなかった
ということです

我々の世代では朝敵云々という感覚はまったくありませんけど、そうだったんですか


さようなら、またいつか伺います

自宅をナビに入れて帰ります。
すぐに国道354号線に出ました
神社の後ろを国道354号線バイパスが走っていたのです 。
将門さん、ありがとう
354に乗れば帰れます


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将門の故郷に行ってきました・総集篇 (下総國・板東郷土館ミューズ)

2019-06-20 14:59:39 | 下総國
道ばたにも紫陽花がきれいに咲いています。
春先の寒さで花芽が枯れた木もありますけど、諏訪神社の鳥居脇にはきれいに咲いています。






紫陽花の名所・山上城跡公園はどうかな?





天慶2年(939)12月、平将門は上野国府で新皇宣言をしました。
ところで、将門はどこからやって来たのでしょう?
上野国府を襲う前に、下野国府も襲ってますけど。
彼の故郷はどこなのでしょう?


検索してみると、意外な所でした。
茨城県坂東市、平成17年岩井市と猿島(さしま)町が合併して誕生した市です。

将門の頃は、下総の國です。
旧国名は基本的に都に近い方が上(かみ)遠い方が下(しも)ですけど、総(ふさ)の国は陸上交通では近いところが下総(しもうさ)です。
それはこの地方が低湿地帯で交通に不便で、南の方が海上交通で行きやすかったので上総(かずさ)になったということです

遠そうです
でも、よくよく地図を眺めると、国道354号線をひたすら行けば行けそうです
坂東市にある「さしまミューズ」も度々将門の企画展をやっていて、『坂東市本将門記』を刊行しています。
これは、行くきゃない
途中の茨城県古河までは行ったことがあります。
古河から30分とか。
ちょっと、準備不足でしたけど、1月26日に出かけました。
まさか、その晩雪になるとは思わなかったです


だいたい9時半頃に出発、国道50号線から太田の只上で122号線に下りてひたすら南下、354号線との合流地点を目指します。
ここらへんは新しい道なので、前回はナビにうまく出ませんでした。
ナビの書き換えをしたはずですけど、はたして?
今回はうまく合流できました。
合流地点付近のコンビニで、暖かいコーヒーで一休み


354号線をひたすら東に行きます。
354号線はズーと延びているはずですけど、ナビは曲がれと言います。
ナビに、ある区間の情報がないのです
無視してまっすぐ進みます。
やがて、ナビも働き出しました

古河で渡良瀬川を渡ります。
ここら辺までは来たことがあります

ひたすらひたすら354号線を行きます。

坂東市に入り、そのうち左折の指示が出ました。
左折すると、コンビニがありました
12時を回ってます。
昼食がてら休憩です。

さて、もうひと頑張り
猿島(さしま)の文字を見かけるようになりました
高台をのぼって到着です

いくつかの公共施設の複合施設のようです。
地域の案内板がありました。



やっと着きました、板東郷土館ミューズ(さしまミューズ)です






受付に、将門記や企画展の図録見本が置いてありました。
将門記や将門関係の企画展の図録を買い求めました。



原文や解説ももちろんあります。


過去の企画展の図録は3冊、うち1冊は完売でしたが、ネットで公開されていました





2013年の企画展図録、これは完売でした。
でも、とてもわかりやすく編集されていて、貴重な資料です
ネットでダウンロードし印刷しました。


『坂東市本将門記』が公開された時の企画展です。




将門グッズのマグカップも購入しました
常設展示は駆け足で見学です。
夕方のお散歩前に帰りたいけど、一カ所だけ史跡見学です。

将門の木像がご神体という国王神社をめざします








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将門の故郷に行ってきました・総集篇 (上野国府推定地・宮鍋神社)

2019-06-19 15:29:02 | 群馬県・中毛
タバサねーちゃんは、いつもわりと落ち着いてにこやかに行動しています。



ところが意外なものに強く反応しました



「不審者じゃー、とっとと失せろ!」と言わんばかりに、吠えまくります
同行している小次郎パパは、まったく反応していません。

タバねーちゃんは、古びたマネキンに向かって吠えています。



おそらく、下に見える落花生を鳥から守る為に、設置されたのでしょう。
同じ場所を、ひめちゃんと獅子丸も通りましたけど、まったく気にしていません





平将門は、天慶2年(989)12月上野国府を襲い、その時現れた八幡大菩薩の使いを名乗る巫女の神託により、新皇を称しました。
この上野国府推定地・宮鍋神社のあたりは、今年の1月3日に訪れました。
宮鍋神社の記事だけだとちょっと寂しいので、この日廻った所も一緒にちょっと紹介します


この日の第一の目的地は榛名山南麓の白岩山長谷寺(ちょうこくじ)でした。



大渡橋(おおわたりばし)を渡ってひたすら西に行き、箕輪城(みのわじょう)付近の南を行きます。

ごったがえしてはいないけれど、それなりの人出です。
境内にはいってまもなく、「金峯山(きんぷせん)修験本宗白岩山長谷寺(ちょうこくじ)とあります
聞いたことない宗派です。
総本山は吉野山金峯山(きんぷせん)寺、修験道のお寺です。


隣にある白山神社も、お参りです



けっこう賑わっていました


帰りは、ひたすら東に向かいます。
関越自動車道をくぐって、南に進路を変えます。
化粧薬師に寄りました




次は総社神社です。
こちらは大変な人出でした



律令制下、任命された国司は任国内の神社に詣でることになっていたけれど面倒なので、まとめたのが総社神社ということです。



総社神社の後は、宮鍋神社に向かいます。
細い路地を入りますが、なんとか車で行けました 。
ちょっと路上駐車で失礼します。

こちらは誰もいません



鳥居の奥が本殿でしょうか?

上野国府正庁推定復原図があります。



上野国府の正確な位置はまだ確定されていないようです。
ここ宮鍋神社が、上野正庁跡と推定されているようです。

由緒書があります。



人皇十代崇神天皇の第一王子豊城入命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。

これは総社神社の創建の話です。
総社神社は、初めは此処に創建されたのですね。
実際に説明板(由緒書)の左に、上野国総社跡という大きな碑があります。



「建武の中興の時に、長尾忠房が、国府を城郭化し蒼海城と称し、総社神社は現在の場所に移されたようだ」ということのようです。

そうすると、総社神社は長尾忠房が蒼海城を築くまで、ずーとここにあったことになります
奈良、平安時代のみならず、鎌倉時代もここにあったことになります

総社神社と国府正庁とが同居することは、まずないと思うのですけど
昨年行った多賀城の陸奥総社宮(むつそうじゃぐう)も、多賀城政庁跡から、少し歩きました

「宮鍋は宮之辺が変化したのではない。総社神社移転の跡地の東に、鋳物を行とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆?神を合祀して宮鍋神社と称したのであろう。」
ということのようです

国府の政庁はどこにあったのでしょうか?

天慶2年(939)12月、平将門(たいらのまさかど)は上野国府を襲いました。
そのとき、八幡大菩薩の使いを名乗る巫女が現れその神託によって、新皇を称しました。

上野国府は、平将門が新皇宣言をした場所なのです。
では、その将門はどこからやって来たのでしょう?

将門の故郷が気になります






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