獅子丸は実家の暮らしにも慣れて、お散歩前に少し待っていることができるようになりました。
ひめちゃんの用意ができるまで、待ちます。
ひめちゃんと、堀之内を西に出て、諏訪神社の西の高台を南下します。
振り返ると、赤城山が姿を現すところです
左端の木々の向こうに、上野第四の碑・山上多重塔があります
先日(昨年の12月2日)、偶然に大間々で絹屋弥市(きぬややいち)の石灯籠に出逢いました。
「大間々町誌」によると、熊谷の久下(くげ)の渡しで白井権八(しらいごんぱち)に殺された絹屋弥市の供養塔だとあります。
さらに、権八地蔵の話があります。
久下の荒川土手で、白井権八が上州の絹商人を殺して300両という大金を奪った時、フト見ると、傍らに石地蔵があったので良心がとがめ、「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、石地蔵が、「我は言わぬが汝言うな。」と口を開いた
そして、この「ものいい地蔵(権八地蔵)」は、まだあるというのです。
では、行ってみましょう
妻沼(めぬま)廻りで、行くことにしました。
(この日は今年の1月6日でした。)
利根川は刀水橋(とうすいばし)を渡って、「道の駅めぬま」を横にみて下ります。
とりあえず、付近の寺院・東竹院をナビの目的地にして出かけました。
東竹院のさきをしっかり頭の中に入れてきたつもりですが、一方通行や通行止めがあり到着できません
権八地蔵の住所がメモしてあったので、住所で検索です。
ナビ様のいう通り、細い道で不安でしたけど進みます。
あれ、みかりや跡の表示です
中山道を往来する旅人を相手にして、繁盛していたんですね
たぶん絹屋弥市も、ここに寄ったことがあるのでしょう
中山道は、ここだったのですか
なんとなく弥市さんの引き合わせでしょうか
道なりに荒川の土手に出ます。
久下の渡し・冠水橋跡がありました
裏側です。
碑の右に説明板があります。
久下の周辺の歴史がよくまとまってます。
この地は鎌倉時代には、熊谷次郎直実の叔父の久下氏の領地で、やや下流に館もあったといわれる。江戸の頃、幕府の施策でこの一体は荒川の付け替え大工事が行われ、現在の荒川になった。以後、明治の鉄道開設まで、江戸との舟運の起点、久下新川河岸として栄え、帆を張った早船や中仙道の旅人で賑わった。舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
そうだったのですか
絹屋弥市もここを通って上州と江戸を行き来していたんですね
思いがけず、不思議な巡り合わせでした
行く手の土手の下に、ストリートビューで見た建物が見えます