黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

初秋の関東管領の城・雉岡城(きじおかじょう)

2019-09-23 14:45:14 | 埼玉県

ひめちゃんたちの、今日のお昼は、サツマイモご飯と煮干しでした。

昨日の朝のことです。

ひめちゃんと北の方にお散歩に出た獅子丸は、突然脇の畑に転がっていた丸い大きなサツマイモをくわえ、持ち帰えろうとしました

左下に転がっているサツマイモです。

大きすぎてうち捨てられていたのでしょう。

生でも、サツマイモはサツマイモのようです

お昼のご飯を炊くときに、小ぶりのサツマイモをぶつ切りにして乗せました。

おいしく火が通って、崩してご飯に混ぜました。

サツマイモの季節が始まりました

 

 

 

飛龍の榧の龍清寺をあとに、関東管領の城・雉岡城に向かいます。

実は塙保己一記念館の入口を見落とし、くるくる回って、ここは通過していたのです。

縄張り図と説明板があります。

 

「関東管領山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので、山内上杉氏は上州平井城に移った」とあります。

昭和58年、約40年前の説明板です。

「きじがおかじょう」と仮名がふってあります

 

これから散策できるのは、本郭の一部です。

桜の季節には、いい雰囲気でしょう

 

ここにまた説明板があります。

今度のふりがなは、「きじおかじょう」です。

15世紀中葉以降の関東の騒乱に伴って、鎌倉街道上道と関東管領上杉氏の居城平井城方面へとのびる上杉道の分岐点の児玉の地を押さえるために築城されたものです。また鎌倉街道中でも最大規模の一が立っていた児玉の地から、享徳の乱の前線であった五十子に物資を供給する役割を担っていたものと推定されます。

「平成25年、本庄市教育委員会」とあります。

研究が進んだのでしょうか

ここから、五十子に物資を供給していたんですか

 

散策を続けます。

 

夜泣石とあります

説明板もあって、児玉の民話が紹介されています。

 

さらに進むと、もう一枚説明板があらわれます。

「平成26年、本庄市教育委員会」となってます。

ふりがなは「きじおかじょう」です。

雉岡城は、交通の要衝である児玉の地と「鎌倉街道」随一とされる「児玉の市」を押さえることによって、乱の前線である五十子の陣の兵站を確保する目的で築城されたものと考えられます。

 

歯切れ良くまとまってます

 

城跡には庚申塔や馬頭尊・如意輪観音などの石造物が少しありました。

この石造物は、近年の設置と思われます。

どなたでしょう?

説明板等はないので分かりません。

関東管領の上杉さんでしょうか?

桜の季節に、また訪れたいものです

コメント
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