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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

ゆかりは古し貫前神社(ぬきさきじんじゃ)

2019-10-01 15:47:19 | 群馬県・西毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、お散歩してきました。

さて帰ろうした時、ひめちゃんの目に小学生の姿が映りました。

ひめちゃんは子どもが苦手です。

急遽脇道に入り、諏訪神社の裏の元蓮田を通って帰ります。

右の森は諏訪神社裏の森、向こうの山は赤城山です。

引っこ抜かれたはずの蓮がたくましく生き抜いています

 

 

 

先日、二宮赤城神社に詣でました。

記事は後日アップします

御朱印とともにいただいた由緒書に、

あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織りが上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。そこでこのような技術を持った神が他国へ移っては困るので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。

とあります。

ちょっと、気になる貫前神社だったのです。

 

 

群馬サファリパークから10~15分くらいだったと思います。

坂道を上り、大きな鳥居にでました。

貫前神社の大鳥居です

ここにも駐車できそうですけど、脇道を上ります。

 

右側の脇道から登ってきました。

ここまで車で上れるのはありがたいことです

日陰を見付けて、駐車します。

「上って下がる参道」、これから下がります。

 

 

大きな灯籠があります。

門(総門)の脇に説明板です。

製糸関係の大勢の人々が献納したとあります。

そして、「富岡製糸工場の先駆的祈念碑とも言える」とあります。

確かに多くの人名がみえます

鉄製なので、石よりはるかにたくさんの人名が刻みやすかったようです。

そばの狛犬もユニークです

 

 

総門をくぐって、下ります。

降りた所の楼門に賽銭箱があって、そこでお賽銭を入れて参拝するとききました。

降りて総門を振り返ります。

 

 こころばかりのお賽銭を入れて、2礼2拍1例礼で参拝です。

 

社務所で御朱印を頼んで、拝殿の周りを廻ります。

御朱印と一緒にいただいたしおりには、「現在の社殿は徳川家光公の命によって寛永12年(1635)に造営され、本殿・拝殿・楼門は、国の重要文化財に指定されている、総漆塗り極彩色の荘厳華麗なものとなっている」とあります。

どう表現したらいいか言葉が見つかりませんでしたけど、荘厳華麗なのです

本殿には行けませんけど、柵の外をめぐります。

 

本殿の裏に、大きな杉があります。

 

「大杉(藤太杉)」ということです。

説明板が薄れてしまっていて、よくみえませんけど、「藤原秀郷(俵の藤太秀郷)が平将門討伐の時に参詣し奉納した杉だ」という事のようです

秀郷さん、戦いの前にあちこちの神社に戦勝祈願の参拝をしているんですね



こちらは、神楽殿かな?

 

 

一回りして、総門前の社務所に戻りました。

御朱印できてるかな      

(つづく)

 

 

 

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真夏の関東管領の寺(護国山円満寺)

2019-09-02 14:48:41 | 群馬県・西毛
今朝、ひめちゃんちに、ヘメロカリスが咲きました。

元気いっぱいのギャルという感じです



今のところ、返り咲いているのはこの子だけです。

ひめちゃんは、毎日この花の前を通ってお散歩に行ってます。
でも、気にならないようです。

犬は色の識別がある程度できるようです。
おかあさんの車の色と同じ車を見ると、立ち止まります

何色もあると、どうなんだろう?






関東管領の城・平井城から五十子(いかっこ)廻りで帰ります。
五十子は、戦国時代に、膳さん山上さんが佐野周防守に葛塚の地を奪われて、3年間滞在した所です
五十子の陣の跡は、国道17号で分断され、遺構はなにもありません。
でも、そのあたりということで、17号線沿いの「天狗茶屋」をナビに入れます。


五十子への途中に、関東管領のゆかりのお寺があります。
円満寺です。






参道に、古びた地蔵堂があります。
延命・子育地蔵とあります。




脇に円満寺の説明があります。



永享10年(1438)、関東管領上杉憲実が鎌倉を退去するときに移した寺がもとになっているとあります
そしてなんと境内の行人塚(ぎょうにんづか)から、関東管領上杉憲房の墓碑が発見されたとあります

さらに、上杉憲実・上杉顕定の墓碑を復元した供養塔を建立し、上杉憲房の墓碑の墓碑を修復したとあります

関東管領ゆかりの寺ですね



他に説明板等はないのですけど、たぶん山門脇のこれが関東管領ゆかりの墓碑でしょう





斜め後ろに塚があります。



石造物もあるし、もしかしたら行人塚?
生きながら即身成仏した行者の墓?

まあとにかく合掌



山門に「護国山」とあります{あります



やはり、関東管領の寺です
でも、山門に仁王像はありません。



山門をくぐります。



本堂です。



というか、他にお堂は見当たりません
どうも無住のようです



振り返って山門を望みます。



桜が似合う山門でしょう



本堂&庫裏の東の方にも、塚があります。



行人塚かな?
古墳のような感じもします。
とにかく合掌



五十子の天狗茶屋で、ランチで一休み
さて、自宅をナビに入れるとほぼ真北を指しました

山上の地から、五十子はほぼ真南だったのです

山上の地は、上野国府からもほぼ一直線に東です






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真夏の関東管領の城(平井城)

2019-09-01 16:37:31 | 群馬県・西毛
おととい、獅子丸は動物病院に行きました。
はや、3度目です。
先生が、「獅子くん、おてて見せて。」
「あ、爪は剥がれています。今日あたり剥がさなければならないと思っていましたが、よかった。一ヶ月くらいすれば、新しい爪が生えてきますよ念のため、痛み止めと化膿止めのお注射をしておきましょう。そうすれば、もうう大丈夫です。」
ところが、獅子丸は注射が苦手のようです
なんとか押さえ込んで、やっと済ませます。
きょうだいの中で、一番注射が苦手みたいです
赤ちゃんの時は、とってもおっとりした穏やかな子でした。





注射の時は、凶暴犬になります。





藤岡市歴史館で、「埴輪の匠、藤岡にあらわるー埴輪づくりの窯をさぐるー」という企画展がありました。
何年か前に一度行った事がありますけど、久しぶりに出掛けてみました。
付近の地図です。



ついでに、関東管領の城・平井城にも寄ってこよう




藤岡歴史博物館、大きな人物埴輪がお出迎えです



埴輪を焼く専門の人々(埴輪の匠)がいたのですね

そのうちに、本郷埴輪釜跡にも行ってみましょう




歴史館の脇を南下すれば、平井城です。

元気に「関東管領の城平井城」の幟(のぼり)が旗めいています




でも、関東管領の城として散策できるのは、限られた範囲です



右手には、この前来た時にはなかった建造物があります
まあ、進みましょう。

上杉謙信公・奪還回復の城跡とあります



大きな大きな上杉一族之碑があります



左に「永享の乱」歌碑があります

勝鬨がこだまする 藤岡森に勇ましき
戦国武将の出陣か 古城のあとに伝わるる
関東管領上杉の その名も高き永享の乱



永享の乱は、永享10年(1438)鎌倉公方足利持氏と対立した上杉憲実(うえすぎのりざね)が上野平井城退去して始まります。
もともと関東管領は、鎌倉公方を補佐するために置かれたものです。

謳われている上杉憲実は、正義の味方いい人です。
どうも、イメージが

実は8月15日、群馬県立歴史博物館で、「上杉憲実」の講演会がありました。
そこで語られた上杉憲実は、戦国の英雄ではなく、人間くさい面をたくさんもった人物でした。


すぐ脇には、断崖絶壁という感じで、鮎川が流れます。



騎が生い茂っていてよくわかりませんけど、断崖絶壁です。



行き止まりに、公園の地図です。



うす緑色の所のみ散策できます。
ピンクの所は個人の所有なのでしょう。

現在位置から、目と鼻の先なのに、復元橋に直接行けないのです


何か地元との齟齬を感じます
前から感じてはいましたけど、今回は一段と深まっているようです

史跡・関東管領の城は、大切です
戦国時代の端緒になった永享の乱の史跡であり、英雄・上杉謙信奪還の城以外の面も、最新の研究を踏まえて発信していく必要があるでしょう


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ぐんまちゃん埴輪に会いに

2019-08-12 16:05:33 | 群馬県・西毛
昨日よりも真夏の太陽の復活が早く、暑い日になりました。
でも、みんなしっかりお昼(削り節かけご飯と煮干し)を平らげました。
食後の歯磨きガムももらって、静かに夕方を待ちます。





山上城の隣、膳城の裏に、粕川歴史民俗資料館があります。
資料館の展示室には、いつもなら4体の馬形埴輪がお迎えしてくれます。



あれ、この日は2体だけでした



あ、そうか
HANI-1グランプリで、2位だったんですね

盾と賞状もあります。



右の目が前にある子が2位に輝いたのです
目が前にある馬について、説明があります。





それでは、ぐんまちゃん埴輪に会いに行きます

群馬県立歴史博物館で開催中の「集まれ!ぐんまのはにわたち」に行ってきました
何と基本的にカメラOKでした
いくつかNOカメラのヶ所を除いては。


先ず目に付いたのは、この武人埴輪です。



甲冑をまとった非常にできばえの良い方です


あ、鷹匠くんです



太田のオクマン山古墳から出土したのです。
何度もお目にかかってますけど、もしかしたら本物は初めてかも?


裸馬に人が乗ってます





表現に苦心の跡がうかがえます。
太田市の高林(たかはやし)の出土です。


こちらも人が馬に乗っています。



伊勢崎雷電神社古墳跡出土という事です。


HANI-1グランプリ1位の笑う埴輪です




矢を受けて血を流す鹿です。




王冠をかぶった人と琴を弾く男子と巫女です



世良田諏訪下30号墳出土です。
たぶん道の駅おおたの近くでしょうか?
住民でなくなってから、故郷がこんなに古代にも栄えた地であることを知りました



太田駒形神社埴輪窯跡の出土埴輪です。



太田駒形神社の埴輪窯跡は尋ねたことがあります


やっと会えました、ぐんまちゃん埴輪です






隣にも目が前にある、いわゆる「平目(ひらめ)」の馬がいます



こちらは大泉町出土です。


もう1体「平目(ひらめ)」の馬がいます



こちらは渋川市赤城町出土で、群馬県地域では最小とされる馬形埴輪です。



群馬の埴輪が大集合しているので、見ても見飽きないほどです
今回はぐんまちゃん埴輪に会いにいったので、馬形埴輪中心のレポートになりました













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千葉周作も詣でた妙見様

2019-08-10 16:29:28 | 群馬県・西毛
ひめちゃんは膝の痛みが取れてきたようです
七海ママの散歩につきあって、ちょっとそこらまで行けるようになりました
まだ大事をとって、遠出は控えています。

案山子(かかし)が、また近所に出現しています。






小次郎パパもタバサねーちゃんも、特には気にしていません。

最近は案山子と言うより、鳥の形のカイトとか、大きな目玉とかが主流でした。
やはり案山子が落ち着きます





新着記事です。

上野国分寺ガイダンス施設で、妙見寺(みょうけんじ)について聞きました。
是非に寄らなくてはと、細い細い道をナビのいう通りやって来ました。
駐車場に白線が引いてあります
何かイベントがあるのかな?

提灯の行列です。
イベントが近そうです。



説明板があります。



非常に古い神社のようです。

ウィキペディアによれば、
平将門の乱では、染谷川の戦いで苦境に追い込まれた平良文が不思議な声を聞き、導かれてついて熬ったところ当寺にたどり着いた。そこで僧から七星剣を渡され、以来妙見菩薩の加護を受けるようになった。良文と関係の深い秩父神社、千葉神社は当寺から勧請されたものである。


平将門が新皇宣言をしたという上野国府もすぐそこです
将門の乱の時に、血で染まった川が染谷川だとか、残念ながら確認してきませんでした
今度行ったら確認してきます



ちょっと山門に戻ります。
今朝来た道です。



あの信号を曲がってきたのです。


山門にも提灯の行列です



階段を登ります。


テントが設置されています






拝殿に到着です。
静けさに包まれています




脇に群馬町時代の説明板があります(現在は高崎市引間町)。



現在の社殿は、天保10年(1839)の再建だとあります。
そうすると、千葉周作が馬庭念流との騒動で上野を撤退した後の再建になります。
千葉周作が詣でた社殿とは異なるようですけど。


脇からの本殿です。




後ろからの本殿です。




一回りしてテントに出ました。



お祭りの準備万端という所です


鐘楼堂のと頃には舞台ですね




「御朱印を」というには、静寂すぎて諦めました

本堂前から駐車場に帰ります





お寺と神社がいまでも一緒に隣り合って存在していました

妙見信仰とは北辰妙見菩薩に対する信仰で、もともとは道教の北極星・北斗七星に対する信仰だそうです。
北天にあって動かない北極星(北辰)は宇宙のすべてを支配する最高神で、北斗七星はその乗り物で、人々の行状を監視し、生死禍福を支配するといいます。
そこから、北辰・北斗に祈れば、災厄をのがれ、福がもたらされ、長生きできるという信仰が生まれたそうです。

そうだったんですか

千葉氏は平良文の子孫ということです

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