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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事

2025-03-19 15:36:40 | 桐生老談記の世界

霙(みぞれ)予報が出ていましたけど、昨夜は雨でした。

朝起きてみて、びっくりです

白い世界です

ひめちゃんは貧乏カッパで、霙雪の中をお散歩です。

春になったと思ったのに、今日もまた一日中おうち犬で過ごします。

 

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。
宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事

去る程に、佐野の城にては、大将無法に出給え候えば、家中の騒ぎ夥しく、早鐘をつき太鼓を打って、人を集めけれども、元朝の事なれば、諸人の心調はず、集まる人もなし。

去れども在城の人々には、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久先として、時刻を移さず大将の軍に続かんと、馬を乗りて出るもあり、また歩行にて出るもあり、思い思いに続きける。

斯くて上飛駒にはせ付き見れば、城は炭となりて跡形もなき有様なり。

此の上は下飛駒の城に取りかかり、勝負を決せんというもあり。

また、大将の行衛を尋ね請け、後日に旗を揚げんというもあり。

敵陣に向かわん事は千に一つも誤りては、何と悔やむとも帰るまじ。

先づ御行衛を思い思いに尋ね給う

明くる二日の晩に、宗綱討ち死にと聞きければ、佐野勢思いけるは、御連枝公へ達し下々に至る迄、大将の討ち死にを深く包み、宗綱公病気と領分へ相触れ、鳴り物を留め門戸を閉じ、人をも入れず他出もなく、慎みある様、実に病気と見えけれども、悪事千里に隠れなく、臆病ものの使い方は尤も左様にあるものと、世の人是を笑いける。


其の時の落書に云う。
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討たせ家来はぶじで正月を致すも神の利生なりけり」


斯くの如く正月二日の早旦に大手の左右に立てにけり。

 


あらすじです。


元旦に、佐野の城(唐沢山城)では、城主の宗綱が十分準備もしないで、飛び出て行ってしまいました
早鐘や太鼓で人を集めようとしますけれど、元日なのでだれも来ません
けれども在城の人々は、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久といって人々を先頭として、すぐに大将の軍に続こうと、馬に乗て出る者あり、また歩行で出る者ありで、思い思いに続きました。
翌二日の晩に、宗綱討ち死にと伝わりました
佐野家中は、討ち死にを隠し病気だとしました。
けれども、悪事千里を走るのように、世間に知れ、佐野衆は臆病者と笑われました

正月二日の早朝、城の大手門の左右に
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討つたせ家来は無事で正月を致すも神の利生なりけり」
という落書が掲げられました。

 

 



佐野家中が宗綱の討ち死にを知ったのは、二日の夕方でした。
落書が、唐沢山城の大手門の左右に掲げられたのは、二日の早朝でした

落書(落首)は、政治風刺、政治批判、揶揄(やゆ)の目的で人々の目に触れる場に掲示される文書(ウィキペディア)です。そして、江戸時代に盛んだったのです。

戦国時代の話なのに、まるで江戸時代のようです
城主を死なせてしまって、家来がお正月してるという批判です。

でも、時間的に見ると、城内の家中がの死を宗綱知らないうちに、もう落書(落首)が大手門にあったのです
そんなばかな

 

 

初稿  2020.05.09

改稿  2024.03.19

( 宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事  終 )

 

 

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流石の猛将目もくらみ(宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 3)

2025-03-13 15:22:03 | 桐生老談記の世界

晴れて暖かい一日になりました

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はテラスのお部屋で過ごします。

厳しい冬で、ほとんど室内犬の日々でした。

これからは昼間は、お外犬で過ごしてもらいましょう

 

2020年4月の、小次郎パパと獅子丸です。

似てなくはないけれど、やっぱりママ似かな

獅子丸の足は、七海ママの足です

 

 

 

宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 3


やぐらに上より是を見て、敵か味方かと声懸けるに、返答なくば討ち取ると、口々に呼ばわれども、しころをかたむけ、既に番所へ乗り懸けたり。

番所にも防がんと、或いは丸木または薪をなげ、弓手馬て(ゆんでめて)になげ打てば、馬もすくんで立つところに、屋ぐらの上より打つ鉄砲真首に当たれければ、流石(さすが)の猛将目もくらみ、馬よりどうと落ちけれども、漸くにおき上がり、田畔(たぐろ)に越を懸け、今は是までなりと思い定めて、指添え(わきざし)を抜き、鎧の引き合いに押し立て、無体に自害なされしはいたわしさもまた、あさましき有様なり。

時に大勢打ちかさなり、いまだ御息もたえざれば、名のれ名のれとせむれども、終に息切れ失せ給う。

さては死骸をよく見るに、白綾に練り絹の裏を打ったる下着し、鎧は五色の糸をとじ、竜頭の兜を着し、金作りの達をはき、鹿毛なる駒のたくましきに乗り金覆輪の鞍を置く、其の出で立ちのはなやかさ、何様常の武者ならず。

一方の大将とみえたり。

後日、子細は知れるべしと、戸嶋七右衛門という者に、此の馬預け起きて、死骸を片付け鳴りを静めて居たり。

 



あらすじです。


鎧兜に身を固めた武者がただ一騎で、飛駒の城にやって来ました。
ただ突進してきます。
足利方が櫓の上から撃った鉄砲が武者の首に当たりました。
さすがの彼も馬から落ちて自害しました。
その死骸のいでたちの華やかさは、ただの武者ではなく、かなりの大将とみえました。



あまりにお粗末すぎる、佐野宗綱の最期です
飛んで火に入る夏の虫以下の、こんな戦国武将はいないでしょう
ちょっと作者が、ストーリーを簡単に作りすぎていますね

須花の正光寺、昨年11月30日に再訪しました。

正光寺には、佐野宗綱と家臣団の五輪塔群があります。

願はくは花の下にて(須花正光寺・佐野宗綱の記憶2)

このあたりは須花城出城の正光寺城であったということです

一般的に言われる佐野棟綱討ち死にの地は、もっと足利より、大将の須花トンネルの上です。

 

 

初稿  2020.05.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.03.13

 


( 宗綱短気に依って不慮の最後の事 終  )

 

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元日辰の刻ばかりに、物の具したる武者一騎(宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 2)

2025-03-11 13:13:39 | 桐生老談記の世界

ようやく寒い冬も終わりそうです。

上野国山上(こうずけのくにやまがみ)は、いつもより厳しい冬でした

クリスマスローズも、3月になってようやく開花しだしました

 

2020年3月の黒柴家族です。

七海ママと小次郎パパは、服を着ています。

けっこう寒い日があったかも。

末っ子のひめちゃんと獅子丸は、よく一緒にお散歩しました

獅子丸は、タバサねーちゃんとも相性よかったね

菜の花が咲いても、赤城山がうっすらと雪化粧していることもありました。

 

 

 

 

宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 2

不思議や馬小道に切れて、本光寺の墓所にかけ入り、宗綱怒って手綱をかいぐり引き返せども、三度迄こそかけ入りしかば、後にこそ不思議と知られたり。

かくて宗綱供もなく、ご近所の人四五人物の具もせず、はかまも抜かず、取り刀にて駆け出したれども、馬は元より名馬なれば、歩行武者既に息を切り、遅れて追いつく人もなし。

かくて足利勢夕べの夜討ちに勝利を得、飛駒の城に引きこもり、定めて佐野より討っての勢の向かわんと、門、木戸堅め待つ所に、元日辰の刻ばかりに、物の具したる武者一騎、駒に白砂はませ飛び来る。

 


あらすじです。

宗綱が乗り出した馬は、不思議な事に本光寺の墓地に駆け入りました。
宗綱が怒って引き返したけれど、三度も駆け入りました。
本当に不思議なことでした。

宗綱に騎馬武者の供はなく、歩行武者が4,5人刀を腰に差す余裕もなく、わしづかみにして駆け出しましたけれども、馬が名馬なので、息が切れて追いつく者もありませんでした。

一方、足利方は、昨夜の勝利に下飛駒の城にこもって、きっと佐野から追っ手がやってくると、門や木戸を閉めて待っていました。
すると、元日の辰の刻(午前8時前後)鎧兜に身を固めた武者一騎がやってきました。

 


地図を見ると本光寺は唐沢山城の北の方にあります。


由来等はわかりません。

足利勢が籠もっていたのは、須花の須花城だと思われます

佐野市のHPでも、
須花城跡は、標高約200メートルの山城です。本丸周辺に土塁を巡らせた削平地と堀切が残ります。
皆様ご存じのように、須花周辺は、佐野宗綱が天正13年(1585)、足利長尾方に討たれた地としても知られています。

あれ、佐野市のHPでは、佐野宗綱の討ち死には天正13年(1585)とあります。
『桐生老談記』では、天正12年(1584)の元旦としています
いろいろ検索してみると、宗綱の死は天正13年(1585)というのが一般的のようです

 

 

 

初稿  2020.05.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.03.11

 

 

(つづく)

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上飛駒落城の由、告げきたりしかば(宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その1)

2025-03-06 20:05:46 | 桐生老談記の世界

一昨日の朝は、真っ白な世界でした

この冬初めての本格的な雪でした。

今日は日陰の一部を除いて、ほとんど溶けています。

 

久々にケンくんとの2ショット(2021年3月)です

ちょっとふれあうだけで、大満足のひめちゃんです。

ケンくん、まだあんまり太ってなくて元気でした

 

 

 

 


宗綱短気に依って不慮の最後の事・その1


去る程に、其の頃天正十二年甲申(1584)の年、立ち帰る新玉のまたたぐいなきあしたとて、上に雲の上の月、郷より下、山賤の臥所まで、ためしを学ぶる日本のかしこき月日の初めたり。

去れば佐野城にも譜代の御家人出仕あり。

規式は最中の所に、上飛駒落城の由、告げきたりしかば、宗綱大いに怒り銚子土器をなげうちて、装束をかなぐり捨て、馬を出せと下知をなし、物の具を堅め馬に乗り、供の御触れもなく、だだいっさんに乗り出す。


あらすじです。

天正十二年甲申(きのえさる・1584)の年が明けました。
めでたい元日なので、佐野城にも譜代の家臣は出仕します。
新年の儀式の最中、上飛駒落城の報がもたらされます。
宗綱はたいそう立腹して、酒器をかなぐり捨て、儀式の衣服を脱ぎ捨て、馬を出せと命じ、鎧兜に身を固め馬に乗り、一目散に乗り出しました。

 




佐野城は唐沢山城(からさわやまじょう)でしょう
何度か行っていますけど、2017年11月の写真です



唐沢山城・本丸までは、かなり大変です
階段もけっこう登ったと思います
この時は、犬伏薬師堂に行った帰りだったので、本丸は目指さずに、物見台があったという天狗岩に登りました
向こうに赤城山が見えました



足利勢が上飛駒の城を襲ったのは12月29日の深夜です。
元日に上飛駒落城の報が届くとは、ちょっと遅すぎです

 

初稿  2020.04.28

改稿  2025.03.06

 

 

(つづく)

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時に足利勢忽ちに城を攻め滅ぼして(飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事)

2025-02-28 18:38:04 | 桐生老談記の世界

寒さの和らいだ朝です。

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、岩神沼まで行ってきました。

母屋から離れた作業小屋の前に、ずっと繋がれているプーちゃんは、ひめちゃんの両親の世代のような気がします。

プーちゃんは立ち上がって、ひめちゃんに呼びかけます。

ひめちゃんは、完全シカトです。

プーちゃんは、この冬もたくましく生き抜けそうです

 

2020年2月の黒柴家族です。

5年前は、パパもママも健在だったね

岩神沼に行った写真は、これだけです。

やっぱり赤城山は白かったね

 



飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事

去る程に、極月二十九日の亥刻ばかりに、足利勢飛駒の城に押し寄せ、四方より火矢を打ちかけ、熊手を以て塀をたおし、矢鉄砲を打かけ、鯨波を作り込み入りしは、いにしえ土佐坊、堀川の御所へ夜討ちに向かいしも、かくやと思い知られけり。さて老若男女、おめきさけんで、あるいは井戸に落ち、堀に落ち、矢先に当たって死するもあり。猛火にむせて死するもあり。城中さながらあわてさわいで敵を防ぐ者もなし。かくて、大将兵部之介、病気以ての外なれば、乗り物に及ばず、仲間の肩に懸かり、近坂峠を越えて野上の方へ落ち給う。大将退けば軍を望む者なし。忽ちに落城したり。足利勢は四方の口を切りふせぎ、兵部之介が落足生け捕らんと、待ち掛けたり。されども近隣の百姓ども、城に火の手の登るを見て、常の出火と心得て、長柄、鳶口を持って先を争い、かけつけ、足利勢に渡り合い、城の勢と思い、誰殿はお変わりありませんか、誰殿は何方にと、知行の名主、組頭互いに家名を尋ね、名をなのり、近づきければ、寄せ手は城の後詰めと思い、1人ももらすなと切って廻れば、両方の間違いにて、百姓大勢討たれしは、あわれなる有様なり。時に足利勢忽ちに城を攻め滅ぼして、勝時(かちどき)作りて、下飛駒の城に引き取りけり。



あらすじです。


12月29日の午後10時頃、足利勢は飛駒の城に押し寄せて、四方から火矢を打ち込み鬨の声を上げて攻め込みました。
その様子はまるで、土佐の坊昌俊が、義経を堀川夜討ちした時もかくやというようでした。


城中は大慌て大騒ぎで、敵を防ぐどころではありません。


大将の小野兵部之介は病気なので、馬ではなく仲間(ちゅうげん)の肩につかまって、近坂峠を越えて、野上の方に落ちて行きました。


近隣の百姓達は、城に火の手が上がったので、戦ではなく普通の火事だと思って、駆けつけました。
そして、足利勢を城の人と勘違いして近づきました。
足利勢も、城の後詰めと思い「1人ももらすな。」と切って廻りました。
百姓は大勢討たれてしまいました


足利勢は彦間城を忽ちに落城させ、勝ち鬨(かちどき)を上げて、下飛駒の城に引き上げました。



本文中の「矢鉄砲」がわかりません。
でも、「堀川夜討ちもかくや」の状況だったということなので、鉄砲は登場していません
動画や絵画を見ると、弓矢と言うより刀を持ってい攻め込んでます

小野兵部之介は、どんな人かわかりません。
でも、「大慈山碧雲寺」(現在は桐生市梅田町)のサイトに、「天正12年(1584)、飛駒町屋、根古屋城の小野兵部の請に応じて」とあります
碧雲寺に関わりある人のようです

百姓達はなぜこんな夜中に城にやって来たのでしょう?
戦国時代は、城は地域の百姓の避難所だったという話もあります
そういえば、「のぼうの城」でも、百姓達が一緒に籠城していましたね

 

初稿  2020.04.25 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.28

 

(飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事  終 )

 

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