霙(みぞれ)予報が出ていましたけど、昨夜は雨でした。
朝起きてみて、びっくりです
白い世界です
ひめちゃんは貧乏カッパで、霙雪の中をお散歩です。
春になったと思ったのに、今日もまた一日中おうち犬で過ごします。
『桐生老談記』 新しい章です。
宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事
去る程に、佐野の城にては、大将無法に出給え候えば、家中の騒ぎ夥しく、早鐘をつき太鼓を打って、人を集めけれども、元朝の事なれば、諸人の心調はず、集まる人もなし。
去れども在城の人々には、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久先として、時刻を移さず大将の軍に続かんと、馬を乗りて出るもあり、また歩行にて出るもあり、思い思いに続きける。
斯くて上飛駒にはせ付き見れば、城は炭となりて跡形もなき有様なり。
此の上は下飛駒の城に取りかかり、勝負を決せんというもあり。
また、大将の行衛を尋ね請け、後日に旗を揚げんというもあり。
敵陣に向かわん事は千に一つも誤りては、何と悔やむとも帰るまじ。
先づ御行衛を思い思いに尋ね給う。
明くる二日の晩に、宗綱討ち死にと聞きければ、佐野勢思いけるは、御連枝公へ達し下々に至る迄、大将の討ち死にを深く包み、宗綱公病気と領分へ相触れ、鳴り物を留め門戸を閉じ、人をも入れず他出もなく、慎みある様、実に病気と見えけれども、悪事千里に隠れなく、臆病ものの使い方は尤も左様にあるものと、世の人是を笑いける。
其の時の落書に云う。
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討たせ家来はぶじで正月を致すも神の利生なりけり」
斯くの如く正月二日の早旦に大手の左右に立てにけり。
あらすじです。
元旦に、佐野の城(唐沢山城)では、城主の宗綱が十分準備もしないで、飛び出て行ってしまいました
早鐘や太鼓で人を集めようとしますけれど、元日なのでだれも来ません
けれども在城の人々は、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久といって人々を先頭として、すぐに大将の軍に続こうと、馬に乗て出る者あり、また歩行で出る者ありで、思い思いに続きました。
翌二日の晩に、宗綱討ち死にと伝わりました
佐野家中は、討ち死にを隠し病気だとしました。
けれども、悪事千里を走るのように、世間に知れ、佐野衆は臆病者と笑われました
正月二日の早朝、城の大手門の左右に
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討つたせ家来は無事で正月を致すも神の利生なりけり」
という落書が掲げられました。
佐野家中が宗綱の討ち死にを知ったのは、二日の夕方でした。
落書が、唐沢山城の大手門の左右に掲げられたのは、二日の早朝でした
落書(落首)は、政治風刺、政治批判、揶揄(やゆ)の目的で人々の目に触れる場に掲示される文書(ウィキペディア)です。そして、江戸時代に盛んだったのです。
戦国時代の話なのに、まるで江戸時代のようです
城主を死なせてしまって、家来がお正月してるという批判です。
でも、時間的に見ると、城内の家中がの死を宗綱知らないうちに、もう落書(落首)が大手門にあったのです
そんなばかな
初稿 2020.05.09
改稿 2024.03.19
( 宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事 終 )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます