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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

飛駒の城を夜討ちして(長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 1)

2025-02-15 20:06:25 | 桐生老談記の世界

暖かい一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、大室公園にお出かけです。

今日は北側の駐車場に入り、小二子古墳の廻りを歩いて来ました。

タバちゃんを見ている、赤柴を連れたおばさんがいます

「こんにちは

「自分で歩いてるね うちにも18才まで生きた黒柴がいたんだよ

「それはすごい タバちゃんも、頑張ろうね そちらは男の子ですか?」 

「女の子だよ。」

「じゃあダメだ

その子はひめちゃんに「ワンワン、アタチの方が強いんだぞ

「何言ってるのよ

「バイバイ

 

2021年2月の黒柴家族です。

小次郎パパも獅子丸もいます。

東の牧場には、ヤギさん家族がいました。

ひめちゃんと獅子丸は、よくヤギさん家族に会いに行ってました

 

 

 

 

 

『桐生老談記』 手に汗にぎるわくわくした場面もなく、長い期読んでます
意味不明の表現にも泣かされます
でも、あと少しです。
残りは佐野宗綱関連の話がいくつか、宗綱の死で本編は終わります。
あとは、家臣団の名簿です。
もう少し、お付き合い願います



飛駒の城を夜討ちして(長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 1)

去る程に、其の頃足利の城主は、長尾下野守則長と申しけるは、新田城主由良信濃守成重公の御舎弟、足利に入られて、長尾の御名跡を続かせ給う。

頃は天正十一年(1583)の極月(12月)二十九日に、御家臣白石豊後を召され仰せられけるは、「先年より下彦間は、当家の領地たれども、上彦間は佐野の支配なり。ねがわくは当家の一領になさんと、多年の望みなりしに、この度よき時節到来せり。その頃上彦間の城主小野兵部之介、大病気におかされ、家中数日かん病に疲れ、城内油断多かるべし、幸い明日は元日の儀式を調えんと、人の気づかざるこそ幸い、宵、密かに勢を催し、飛駒の城を夜討ちして、多年の恨みを達せん」と仰せられければ、


あらすじです。

その頃足利の城主は、長尾下野守則長です。
新田城主由良信濃守成重公の弟で、足利に養子に入って長尾の御名跡を継ぎました。
天正11年(1583)の12月29日に、彼は家臣の白石豊後を呼び出して言いました。
「先年から下彦間は当家の領地だけれども、上彦間は佐野家が支配している。当家の領地にしたいものだ。長年の望みだったけれどチャンス到来だ。ちょうど上彦間の城主・小野兵部之介は大病で、家中は看病に疲れて、城内は油断しているだろう。幸い明日は元日の準備で忙しいだろうから、飛駒の城を夜討ちして、多年の恨みを晴らそうとおっしゃったので、

 



あれ、一般的には佐野宗綱が元日に戦を仕掛けたんですよね。
足利側(長尾則長)が、元日に仕掛けるような書き出しです

それに、足利長尾氏に養子に入った由良成繁(成重)の弟は、顕長(あきなが)でしたよね

領地にしたいという「望み」が、いつの間にか「恨み」になってます

この戦いの舞台・須花(すばな)は何度も行きました。

須花(すばな)


ここは足利領と佐野領の境目だったのです。

 

 

初稿  2020.04.17

改稿  2025.02.15

 

 

(つづく)

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膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事

2025-02-10 17:19:29 | 桐生老談記の世界

一昨日降った雪は、だいたい溶けています。

でも日陰には残っていて、注意が必要です。

赤城おろしがきつい寒い一日です

近所にキツネが出没するとの話を聞きました

カバ丸をさらっていこうとしたのは、もしかしたらキツネかも

カバ丸は獅子くんの大切なお友達、土に帰って一緒に眠るのです。

キツネさん、邪魔しないでね

 

2020年2月の黒柴家族です

雪の朝の写真がありません

雪は降らなかったかも

 

 

 


膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事

去る程に、渋川の一旗は其の日、午の刻ばかりに膳の城に取り懸かり、鯨波のどっと作りけり。

されども城中しずまり、何の音もせず。

さて城内を見渡せば、空虚になり、「察するにこの城無勢なれば、越後勢と一所なるとまくりきりにせん、はかりごとなるべし。女渕の城に押し寄せん」と既に評定ある所に、

女渕の城代より、萩田はさる二十一日に直ちに越後へ帰国の由、告げ来たり。

しからば寄せ手の者も手持ちを失い、膳の城に火を駆けて、さんざんに焼き払い、無益の陣を引きにけり。


あらすじです。

渋川家中は、その日の午の刻(12時ごろ)に膳城にたどり着き、鬨の声をあげました。
しかし、城中は静まりかえっています。
「城が空であるのは、越後勢と一緒になっての作戦らしい。女渕の城に押し寄せよう。」と作戦会議をしていたところに、女渕の城代から使者がきました。
「萩田備後守は、(小俣から敗走した翌日)21日に越後に帰国しました。」と告げてきたのです。
小俣勢は膳城に火をかけて焼き払って、引き上げていきました。



膳城の落城は、あっけないものでした
城主・膳備中守の最後も具体的には描かれていません。
もう少し、具体的な描写がほしいところです。


女渕城の位置付けも曖昧ですね
膳城主・膳備中守は、上杉謙信の家来萩田備後守に従って、小俣城を攻めたのです。
なのに、奥方と嫡男は三河の徳川家康を頼って落ちて行ってます

作者の思考がちょっと混乱しているようです
それにしても、膳城と別城一郭といわれる山上城については、何の記述もありません
山上城は、江戸時代の桐生では、無名だったのでしょう

 

初稿  2020.04.14

改稿  2025.02.10

 

 

( 膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事  終 )

 

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内蔵を開き財宝を取り出し家中に残らず配分して(膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その2)

2025-02-06 21:00:49 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは昨夜一晩中、体をなめたりかいたりしていました

これはまた皮膚炎が始まったかな

秋に皮膚炎で苦しんでいたタバサねーちゃんは、なんとか大丈夫のようです。

ひめちゃんとタバサねーちゃんの違いは、食物です。

タバサねーちゃんは、配られた食事とお散歩時のツブツブ(ドッグフード)だけです。

ひめちゃんは、現在ほぼ完全に自由な室内犬です。

基本的にはタバサねーちゃんと同じ食生活のはずですけど、人間の食べ物を与える老人がいるようです

要求する犬も悪いけど、人間の食べ物を与える人間はもっと悪い

あげないように気を付けてもらいましょう。

きつく注意しました。

七海ママもアレルギーに苦しんでいた時期がありました。

検査の結果いくつかのアレルギー物質が出ました。

その一つが小麦です。

たぶん、ひめちゃんも小麦アレルギーです。

パンやお菓子はだめです。

今日は無人スタンドで、新鮮なブロッコリーが手に入りました

ひめちゃんたちの夕食にも付きました

 

 

元記事の頃、2021年11月、朝散歩で、ひめちゃん&獅子丸&タバサねーちゃんは、膳城まで足を伸ばしました。

獅子丸くんもブロッコリーが大好きだったね

 

 

 

膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その2 

これにより弾正、内蔵を開き財宝を取り出し家中に残らず配分して

「いかに方々、何方へなりとも仕え候て重ねて若君御旗揚げ給う節は、駆けり集まり御先途に立ち給え」と、ねんごろに申し談ず。

其の時若君を上座に直し、御盃を参らせければ、春松殿取り上げ、諸家中にくだされ御暇給えば、皆々袖をしぼりつつ、中にもこの程に付き置かれたる、おちや(守役)、めのと(乳の人)は名残を悲しみて伏しまろび、なげきけりこそ、ことわりなり。

かくて巳の下刻ばかりに、北の方と若君、鶴谷、斉藤、野村を召し連れ、数代の住居を後にみて三州にぞ落ち給う。

思えばあさましき有様なり。

 



あらすじです。


(弾正の「若君はひとまず三河に退くのがよい」という提案に、みんな納得したので)
弾正は内内蔵から財宝を取り出して、のこらず家中に分配しました。
そして、「みんな何処へでも仕官なされ。そして若君がお家再興の旗をあげるときは、一生懸命戦ってほしい。」と、心を込めて申し渡しました。
そして若君・春松殿を上座に据え、家中で別れの盃をかわしました。
みんな泣いたけれども、守役と乳母は、特に悲しがったのは、もっともなことでした。
こうして巳の下刻(午前11時すぎ)に、北の方と若君は、鶴谷、斉藤、野村を召し連れ、膳氏数代の住居を後にして、三州に落ち給ていかれました。
まことに嘆かわしいことでした。

 



膳城には、財宝があったんですね
分けてしまったんですね
後日のために埋蔵金にしておこうなんて、考えなかったのです
「とりあえずどっかの家中になって、若君が旗揚げするときは、馳せ参じてほしい。」、そんなこといわれても困りますね

戦国時代の敗者の家臣は、牢人といわれ、どちらかというと、嫌われたようです
そんなに簡単に再就職は無理です

「若君がお家再興の旗揚げ時は馳せ参じ」たら、再就職していても、仕事をなげださなければなりません。
それは、無理でしょう

若君とその母が、三河目指して落ちていきました。
お供していったのは、鶴谷、斉藤、野村でした。
普通は、乳母や守役は付いていきます。

三河と膳さんは、何の関係もありません
さて、弱りました

 

 

初稿  2020.04.11  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.06

 

 

( 膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事  終 )

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ひとまず城を開き三河に退き(膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その1)

2025-02-02 20:17:21 | 桐生老談記の世界

今日2月2日は、数日前から雪予報でしたけど、雨の一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、貧乏カッパでお散歩です。

2月に雨なんてあったっけ

ひめちゃんは、もうじき13才になります

 

2020年4月の黒柴家族です。

ひめちゃんは、小次郎パパともよくお散歩していました。

獅子丸も実家に帰って10ヶ月、パパとの関係は微妙でしたけど、実家の生活に埋没していました

末っ子達は、七海ママの昼散歩に付き添ってました

 

 

 


ひとまず城を開き三河に退き膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その1



去る程に、膳の城には一旗集まり評定なり。

譜代若武者小俣の城にて討ち死にして、残る者には役に立つものなし。老若男女ばかりなり。

斉藤右近此れ等初めて三十旗にすぎず。

時弾正諸勢に向かって、「口惜しきの事なり。主君宗次殿すいきょうに由なき人の徒党して、命を失い家を亡ぼし妻子を捨て、誠にたぐいなき不覚なり。かかる時節到いたし、当年七才なる春松殿を、一郡の主に取り立てまいらせんとおもいしに、懸かるしだらなれば我ら御供申して、家康公甲州御入部の節、御目見えとげんと思いしに今滅亡に至る事、皆是主君宗次殿のなされるわざなり。知行の地侍を集め、一合戦致すともばかばかしき事あるまじ、譜代の家人を失わば、若君後日に御運開き給うに頼りなし。ひとまず城を開き三河に退き、家康公に職くして時の至を待つべし」と、理を尽くしてもうしければ、人々同心なり。



あらすじというか、大意です


(小俣城攻撃で敗退した頃)膳城には家中が集まって相談しました。
譜代や若武者がみんな小俣城で討ち死して、役立たない者ばかり残っていました。
残っているのは、斉藤右近をはじめとして30騎ほどでした。
時弾正が、みんなに向かって言いました。
「我らの主君・膳宗次が、気まぐれでとんでもない人に加担して、そのあげくに死んでしまい、誠に油断がすぎたことだった。膳家が滅びるのは、我らの主君・膳宗次のせいである。残っている者で戦してもうまくいかないだろう。ひとまず開城して、若君・春松殿をともなって三河に退こう。家康公のもとで、時の至るのを待つのがよい。」
と、理路整然というので、みんな納得しました。



どうも、理路整然どころか、理路不明です
どういう意味か分からない表現が多いです
何が言いたいのか、そう考えて意味を取ります
主君・膳宗次が悪いのだと断言しています
その前に、諫言するべきでした。
それに、なんと家康を頼って落ちていこうですって
膳氏と家康は何の関係もありません。


他の老談記では、上杉謙信を頼ってます。
膳宗次は、上杉勢が渋川義勝の留守を狙って、小俣城を攻撃する時に道案内をして暗闇沢(くらみざわ)で討ち死にしています。

物語として、オリジナルなものを創作したかったのかもしれません
でも、余りに不自然すぎるのは、どうかな


膳氏・膳城については、『粕川村誌』にも、詳しくありません
ほとんど分からないようです。
この膳城の土地は、膳氏の子孫という人が、戦後畑になるのを防いで買い上げ、村に寄付したものだそうです
その売買の過程とかは、実に詳しくでています
ちょっと違和感を覚えます

 

初稿  2020.04.08  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.02

 

 

(つづく)

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勇みすすんで膳の城に向かいけり(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事 ・その2)

2025-01-30 20:01:43 | 桐生老談記の世界

寒い寒い雪風のような風の一日です

おかあさんは、ガーデンの伸びすぎた枝切りです。

クリスマスローズは、まだ花芽をつけていません。

ひめちゃんはお出かけかないませんでした

近いうちに、どこかへお出かけしようね

 

2020年4月の黒柴家族です。

七海ママも末っ子達と、そこらまでのちい散歩を楽しんでいました。

獅子丸はアブラナが大好きで、道ばたの生のアブラナにも食いついていました

しっかりそれを学習したひめちゃんは、お散歩の途中、最近伸び出したアブラナをつまみ食いしています

 

 

 

勇みすすんで膳の城に向かいけり(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事 ・その2)

石井安芸守を大将として、大川、久保田、桑子、久保沢、別府、籾山、片山、松本、広瀬、竹沢、寺内、吉良、栗谷、荒井、根岸、湯沢、大原、須藤、小林、猪俣、小泉を先にして、宗徒人々二十三人、都合百八十人余騎ばかり、十三日の、辰の刻(午前八時)ばかりに、蓮沼の辺りにて勢揃い、勇みすすんで膳の城に向かいけり

あらすじです。

(小俣勢は)石井安芸守を大将として、大川、久保田、桑子、久保沢、別府、籾山、片山、松本、広瀬、竹沢、寺内、吉良、栗谷、荒井、根岸、湯沢、大原、須藤、小林、猪俣、小泉を先頭に、主立った人々23人、総勢180余騎で、13日の辰の刻(午前8時)ごろに、蓮沼のほとりに勢揃いして、勇んで膳の城に向かいました。



小俣城主の渋川義勝が帰ってきたのが4月23日、そしてすぐに戦の指示を出しました。
13日とは、いつの13日でしょう?

ちょっとつじつまが合いません
作者は、日にちの確認を忘れてしまったのでしょうか

蓮沼は、どこだか分かりません
小俣城の近くらしいですけど。

総大将の石井安芸守は、城代の石井尊空ではありませんね。

それにしても、戦の日にちも、いつの13日か分からないのに、戦い参加者の名字は、なんとはっきりしているのでしょう

辰の刻(午前8時頃)の集合って、ちょっと遅いような感じを受けます
でも、当時は一日2食の時代で、朝ご飯は8時頃ということなので、まあ朝ご飯をしっかり食べてからということでしょう

何処を通って、小俣から膳に行くか?
桐生川と渡良瀬川を渡らなければなりません。

それなりに時間はかかるでしょう。
でも、膳に行くには山上を通るはずです。

ところが、山上・山上城については一言も触れられずに、物語は展開します
不思議な事です

 

 

初稿  2020.04.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.30

 


( 渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事  終 )

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