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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

波志江の老女の面影を求めて・その3(金蔵寺)

2022-09-03 20:34:01 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

夕方、今にも泣き出しそうな空です

 

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、南の方にお散歩です。

小次郎パパも、そこらまでのちい散歩です。

後ろ足が退化して思うように歩けませんけど、まだしっかり食べています。

パパ、ガンバだよ

娘達は、無量寺まで足を延ばします。

無量寺は、僅かの石造物と墓地を残して、一見廃寺です

でも、新川の善昌寺が兼務という形でお寺としては存続しているそうです

垣根の隙間から、ちょっと失礼します。

あの無量寺の記憶は、しっかり民家の庭の中です。

今夕は、雨に濡れずに帰宅できました

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です。

 

「念仏往生伝」第27話は、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母 です。

第廿七 上野国淵名庄波志江市小中次太郎母

年八十二。建長六年(甲寅)春往生。兼十七日。高声念仏不懈。最後臨終。端座合掌。金色光明。遙自四方。徹葦墻二重而照。又人々見紫雲瑞 。莫不稱美。

 

2020年 8月15日、波志江の大シイに逢いに行きました。

シイの木公園に入る路地は狭く、車のすれ違いは難しそうです。

折悪しく、車が出るところで、左折不能、やむなく直進しました。

すると、右に神社が、更に行くとお寺がありました

でも、第一目的地の、大シイに逢いにいこう。

お寺と神社は後回し。

なんとかUターンして、今度はシイの木公園の路地に入れました。

 

 

大シイの後は、まずお寺に寄ってみます

ここも波志江のはずです

 

門柱の間を入ります。

念仏供養塔の文字が見えます

奇縁ですね

かなりクラシックな石造物もありそうです。

 

山門前が駐車場になってます。

天台宗金蔵寺です。

金蔵寺は「こんぞうじ」と読むようです。

隣はお寺経営の幼稚園です。

 

せっかちなおじさんは、もうクラシックな山門を通り過ぎて本堂の方に向かってます。

 

りっぱな本堂です。

見事な向拝です

鶴が目立ちます

このあたりの沼に来ていたことがあるのかな?

名のある彫刻師の作品かもしれませんね

 

天井絵もあります

鳥、それも鶴がいっぱいいるような感じです

合掌

 

 

左手に石仏とお堂があります。

失礼します。

お堂の中は、薬師様?

合掌

 

 

おや、お外のお首のないお地蔵様に、「念仏請中」の文字があります

御朱印をと声を掛けてみようとも思いましたけど、8月15日なので遠慮しました。

 

 

『上野国郡村誌』に「上野国佐位郡波志江邨」に、金蔵寺があります。

天台宗近江国比叡山延暦寺ノ末派ナリ、村ノ中央ニアリ、開基創建年度詳ナラズ

ここが波志江村の中央だったのです

 

『ぐんまのお寺 天台宗Ⅰ』(上毛新聞社 平成11)に、

寺伝では平安時代初期、慈覚大師円仁の開山としている。・・・(中略)・・・『念仏往生伝』に、「波志江の市の小中の次太郎母、年八十二、建長六年(1254)春往生」の記事があり、古くから念仏信仰などの盛んなところであったことが知られる。

 

なんと波志江の老女の記憶が語られています

不思議な御縁で、寄らせていただきました

 

 

 

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波志江の老女の面影を求めて・その2(波志江の大シイ)

2022-09-01 15:14:56 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんタバサねーちゃんは、諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

今朝はタバサねーちゃんも元気に歩きます。

さて、お写真を撮りましょう。

あれ、「カードがありません」だって

 

そんな事情で、本日は獅子くんアーカイブで、2020年9月5日の写真です。

夕方、ひめちゃんと獅子丸とタバサねーちゃんは、おとうさんとお散歩してきました。

元気いっぱいに帰ってきた3名です。

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

『念仏往生伝』の第27話、「上野国淵名庄波志江市小中次太郎母」は、波志江の人です。

そして、建長六年(1254)の春に、82歳で念仏を唱えながら極楽往生したということです。

 

年八十二。建長六年(甲寅)春往生。兼十七日。高声念仏不懈。最後臨終。端座合掌。金色光明。遙自四方。徹葦墻二重而照。又人々見紫雲瑞 。莫不稱美。


文字を眺めての、大体の意味です。

淵名庄波志江市小中次太郎母は、82歳で、建長6年甲寅(きのえとら)の年の春に、念仏往生しました。
17日間休まず、声高に念仏を唱え続けました。
正座して合掌して、臨終を迎えました。
金色の光明が、遙か四方から二重の葦の垣根を貫いて照らしました。
また、人々はめでたい紫雲をみました。
この様子に、たたえない者はありませんでした。

 

もう少し、彼女の生きた波志江の風景にあいたいなあ

地図を眺めていると、波志江の大シイがあります

 

かなり細い路地を入るようです。

よくよく、ストリートビューで曲がるところを確かめて出発です(2020年8月の訪問です)。

住宅地の細い路地で、目立つ高木もないし、ちょっと不安

でも、無事到着です

シイの木公園、小さな公園になってます。

 

ちょっと路上駐車です。

せっかちおじさんは、もうシャッターを切ってます。

ズーッと見上げるほど大きな木を想像してきたので、シイの木公園の表示がなければ見落としていたかも知れません

上の部分が落雷や台風で、枯れたり落ちたりしたのかな?

年輪を重ねた幹ですね

歴史を飲み込んできたというべきか

 

説明板があります。

樹齢約600年ですか

念仏往生伝波志江の彼女より、ちょっと若いです

でも、その歴史を飲み込んできたすごい幹に感動です

 

真ん中が折れたかな?

 

 

遊具もありますね。

住宅地の公園なので、季節によっては子ども達の声がいっぱい聞こえるのでしょう

 

南側の道路から見た、大シイです。

一瞬、鳥居かと思いました

単なる支柱であったようです。

でも、神や仏が宿っても当然の雰囲気です

この洞(うろ)に、物語があってもおかしくないですね

いつまでも長生きして、もっともっと歴史を飲み込んでくださいね

 

 

(つづく)

 

 

 

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波志江の老女の面影を訪ねて・その1(波志江沼)

2022-08-27 17:57:11 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

諏訪神社に寄ります。

あれ、大灯籠に獅子がいる

左の大灯籠にも獅子がいます

今まで見落としていました。

ほんとうに大きい灯籠です

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

「念仏往生伝」第27話は、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母 です



第廿七 上野国淵名庄波志江市小中次太郎母

年八十二。建長六年(甲寅)春往生。兼十七日。高声念仏不懈。最後臨終。端座合掌。金色光明。遙自四方。徹葦墻二重而照。又人々見紫雲瑞 。莫不稱美。


まず、題名の人物名は、なんと読むのでしょう?
主人公は、上野国淵名庄波志江(こうずけのくにふちなのしょうはしえ)の人であるのはわかります。

波志江は、現在伊勢崎市です。
2020年の8月、波志江の風景が欲しくて、波志江沼(はしえぬま)に行ってきました。

付近は何度も通っていますけど、寄るのは初めてです。

下沼の南駐車場から散策開始です。



なんと沼のほとりの説明板に、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母の話がありました



波志江沼が、いつごろ築造されたか不明ですが、波志江という地名の歴史は古く、神奈川県立金沢文庫に所蔵される『念仏往生伝野中に、「上野国淵名庄波志江ノ市小中次太郎の母、年八十二歳、建長六年(1254)に往生云々」と記述があり、その頃、この地域に市が立っていた事が知られます。

「波志江の市」ですか

まさか彼女の名を目にするとは思ってもいませんでした


下沼にかかるあの橋を渡ってみましょう
沼の向こうには、赤城山が見えます



あの山の麓・山上の窪井(くぼい)に行仙上人がいたのです

 

 

橋の上からは、赤城山がきれいに見えます

反対側(南側)には、さっきの説明板だと、弁天島です。

現在の島は、公園化に伴って、再構築されたとありました。

わー、何かいる

烏ではなさそうです。

祠もありそうです。

 

渡りきってから橋の名前を確認です。

「はしえふれあいはし」です。

 

今回は北半分を歩きます。

 

沼の畔をあるくと、広場があって、個性的な遊具がいろいろあります。

これはなんとなく童話の世界というイメージです。

こんな表示もあります。

気を付けましょう。

 

おや、シラサギかな?

沼の北方は蓮とか葦の類いが群生しています。

 

西側に回り込みます。

歩いています

今は水位が低いのですね。

人間だけでなく、野鳥にとっても、憩いの場であるようです

 

そのまま沼畔を下ります。

 

おや、石宮様がいっぱいです

薬師如来様もあります。

失礼します。

 

かなり古いお方のようで、お姿がわかりません

でも、『念仏往生伝』波志江の老女に思いを馳せながら、合掌

 

 

来て良かった波志江沼でした

おや、こんな表示も

ということは、犬の散歩OKですね

そのうち、タバサちゃんも一緒に、又来ましょう

 

 

(つづく)

 

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上植木の建長石仏

2022-08-24 15:05:20 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田の田んぼを歩きます。

2人の足は自然とケンくんちにむかいます。

ケンくん、いるかな?

ケンくん、気づいて出てきてくれました

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、シッポをフリフリご挨拶です

やっと逢えたね

また来るよ、バイバイ

 

 

 

 

『中世仏教思想史研究』(家永三郎 昭和51年改訂増補⒍刷 宝蔵館)の中の「金沢文庫本念仏往生伝考」によれば、

昭和八年十一月六日、鎌倉時代の念仏往生傳が熊原政男氏により金沢文庫で発見された。倭綴二折十四葉、凡そ十七八次詰七行書鈔本で、中間と首尾とを欠く残闕本に過ぎないが、これまで全く知られていなかった貴重な新資料であった。

『念仏往生伝』は、昭和8年に金沢文庫で発見されたのです。

本書は鎌倉時代の往生譚として現存する唯一のものであって、その点でも史家にとり貴重な文献と云わなければなるまい。またこの書が上野国という東国僻遠の地で著されてゐることも、文化史的に興味深い事実である。

 

現存する鎌倉時代唯一の往生譚が、東国僻遠の地・上野国山上で生み出されたのです。

では、その『念仏往生伝』の構成を確認です

(欠)
第廿四 (欠)嵯峨の正信房湛空
第廿五 禅門寂如
第廿六 武蔵国吉田郷尼
第廿七 上野国淵名荘波志江市小中次太郎母
第廿八 同国赤堀紀内男
第廿九 同国同所懸入道
第三十 同所毒島尼
(欠)

第卅四 上野国山上周辺の往生者
第卅五 信濃国小田切四郎滋野遠平
第卅六 伊豆御山尼妙真坊
第卅七 武蔵国阿保比丘尼
第卅八 比丘尼青蓮
(欠)

第四十五 遠江国禅勝坊
第四十六 上野国大胡小四郎秀村
第四十七 同国細井尼
第四十八 小松新左衛門尉国頼
第四十九 摂津国井戸庄小野左衛門親光〈法名成仏〉
(欠)

(テキストは、日本思想体系 『往生伝 法華験記』 岩波書店1974 )


往生の時期の確認

 宝治2年(1248)11月5日   信濃国小田切四郎滋野遠平

建長元年(1249)閏12月22日 上野国赤堀紀内男

建長3年(1251)6月2日    上野国赤堀懸入道

          9月8日    武蔵国比丘に青蓮

建長5年(1253)7月23日   嵯峨正信房湛空

          11月11日  吉田郷尼

建長6年(1254)5月23日   上野国山上周辺の念仏往生者

正嘉2年(1258)        遠江国禅勝坊

正元元年(1259)10月5日   上野国大胡小四郎秀村

文応元年(1260)夏       同国細井尼

弘長2年(1262)7月23日   小松新左衛門尉国頼

 

 

建長年間が多いですね

新編浄土宗大辞典によると、行仙上人の没年は弘安元年(1276)です。

往生の日がわかる最後は、小松国頼の弘長2年(1262)7月23日です。

あと16年、行仙さんは生きました。

もしかしたら、100人くらいの往生伝だったかな?

 

 

伊勢崎市上植木に、この建長年間(1249年~1256年)に建立された石仏群があります

改元が激しい時代に、ちょっとだけ長い年号です。

そして、上野国山上で記された『念仏往生伝』に、何人かの人が念仏往生している年号です

もしかしたら『念仏往生伝』の記憶かも

一昨年の2月、訪問しました。

 

 

住所・上植木本町996-5をナビに入れて出発です。

個人のお宅のような門柱に、「上植木建長石仏」の文字があります。

入っていいのかな?

ためらいながら車を乗り入れて、到着です。

振り返って門柱です。

 

駐車スペースもしっかりあります

こんにちは

 

説明板も、ちゃんとあります

右側の背面に建長三年(1251)の銘があるのですね

700年以上の歳月、人々を見守ってきたのですね

合掌です

 

 

隣に馬頭観音とお馬の親子です。

この親子に起こった出来事の碑があります。

かなりの要約です。

けがをした子馬を置いて、ママさん馬はご主人とお仕事に行きました。

子馬にお乳をあげたいママが綱をかみ切っておうちに戻ろうとしました。

その時、運悪く電車がやって来て、ママは電車にひかれてしまいました。

 

同行のおじさん、ウルウルです

 

歌があるのですね。

おじさん、さらにウルウルです

 

 

佐韋の花園(佐位郡の語源)です。

百合は古くは早由里ともいわれ、もっと昔はただ「佐韋」とも呼ばれた。粕川はかつて佐位川とも呼んで白百合が多く乱れ咲いていた。明治29年迄は、広瀬川より東は佐位郡と呼ばれその語源は佐位からとったもので、百合の郷であった。

そうだったんですか

 

上植木廃寺跡の礎石もあります。

そういえば、上植木廃寺跡も近くです。

上植木廃寺には、新里の雷電山付近にあった瓦工房の瓦が、使われたといいます

雷電山には、『念仏往生伝』の編者・行仙上人が居たかも知れないのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて2(椋神社に行ってきました2)

2022-08-20 14:30:40 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西側・東柴(ひがししば)の田んぼ道を歩いてきました。

道ばたの樹に絡まって咲く葛の花発見

ここは中世には葛塚村(くずづかむら)、葛の生い茂る古墳だらけの村だったのです

 

 

 

武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて(椋神社に行ってきました)、続けます

でも、その前に、吉田郷尼の往生の様子を、行仙上人の『念仏往生伝』現代語訳(ひめちゃんち流)で確認しておきましょう

 

かの尼は47歳で出家しました。

その後、念仏三昧に日々を送り、68歳になりました。

建長5年(1256)11月6日、持病が悪化、9日に息子の入道に向かって言いました。

「さる9月11日の暁、恒河聖衆(こうがせいじゅう)が私を囲みめぐりました。
夢か幻のようでした。また昨日からずっと青い蓮の花が見えてます。」

12月10日に言いました。
「眼をつむると、善導和尚が枕上にお立ちになってました。
また、青い蓮の花がみえました。
この時、心はますます清く澄んで、この身体もますます平安でした。
極楽浄土の青い蓮も見えます。」

戌剋(いぬのこく 午後8時前後)に、また言いました。
「今は臨終の時ではありません。
卯時(午前6時前後)がその時です。
そのために、仏や菩薩が少し離れて立っておられます。」

子剋(ねのこく 午前6時前後)に別の念仏を唱え、言いました。

「臨終いよいよ近し、仏が已にそばに来ています。」

吉田の尼は、その後声高に念仏を唱え続けます。
卯の刻(午前6時前後)に、その声は止みました。
でも、念仏を唱える口は、なお二十数回動きました。
そして、彼女は往生したのです。


 

そんな彼女のいた吉田郷、吉田郷の椋神社の訪問記続けます

 

 

椋神社の御由緒があります。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が道に迷ったときに、持っていた矛の先から一条の光がさして、その先に大きな椋(むく)の木があった。

そこには猿田彦大神が立ち、その導きで大勝を得た。

そこで、矛をご神体として、猿田彦大神を祀ったのが、創建である。

 

それで、椋神社なのですね

永禄12年(1569)、侵入した武田勢に焼き払われたとは

天正3年(1575)、鉢形城主北条氏邦が再建したのですか、よかった

 

 

さあ、本殿に参拝です。

赤い鮮やかな社(やしろ)です

 

狛犬も、さっきの山犬さまほどではありませんけど、ちょっとはクラシックです

 

木鼻の彫刻も見事です

 

拝殿で、2礼2拍1例礼で参拝です

 

 

脇にまわって、本殿を確認です。

さっき、御由緒に、脚元の細い蟇股(かえるまた)とありました。

確かに細い

 

 

隣の覆屋の中に八幡宮があります。

かなり古そうです。

でも、よく見ると見事な彫刻です

扉や壁には、かつては絵が存在したようです

秩父平氏が館の鎮守に勧請したものと、説明板にはありました

 

 

秩父氏が畠山に進出したときに、この椋神社を勧請したのが、畠山(深谷市畠山)の井椋(いぐら)神社だったのです

 

 

いただいた御朱印です。

竜勢の絵と山犬の絵があります

 

 

 

武蔵国吉田郷尼の往生譚、かなり詳しく書かれてます。

著者の上野国山上の行仙上人(こうずけのくにやまがみのぎょうせんしょうにん)と深い交流があったものと思われます

また秩父氏は平氏の流れなのですね

行仙上人も、その出自は平頼盛の孫と言われています(「新纂浄土宗大辞典」ウブ版)。

深い交流も納得ですね

 

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