goo blog サービス終了のお知らせ 

黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その4(毒島城)

2022-09-18 14:29:38 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

ひめちゃんが立ち止まりました

タバサねーちゃんも立ち止まります

ケンくんがやって来たのです

2人はケンくんと濃厚接触です

好かったね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

上野国山上の行仙上人が編集したと言われる『念仏往生伝』第三十話に、「同所布須島尼」があります。

第三十  同所布須島尼

年来念仏者也。信心殊深。剰若有病者。以念

(彼女は長い間念仏を唱えていた。そして彼女は殊に信心深かった。あまつさえ、もし病気の人があれば、念仏で・・・・・・。)

第30話の本文はこれだけです


後は欠落です。

実は、30話の途中に欠落があると思ってましたけど、よく似ると欠落部分の次は別の話です。

次の話は第35話の前・34話(上野国山上付近の念仏往生者)の部分です。

彼女は、やはりさほど若くはない女性のようです。

信心深く、世話好きなおばあちゃんのようです。

以後は欠落してしまいましたけど、もちろん紫雲に乗って仏や菩薩がお迎えに来たことでしょう。




同所とは、前からの続きで、赤堀(旧佐波郡赤堀村、現伊勢崎市赤堀町)と思われます

だいいち、「布須島」って、どう読むんだろう?

ふとひらめきました。

「ぶすじまだ

赤堀の毒島、毒嶋城、そうだ久しぶりに行ってみよう

グーグル検索だと、山上から8km、車で13分です。

 

記憶を辿りながら、細い道を通ってやっと到着です。

(訪問は2020年8月です。)

あれ、説明板が新しくなってる

以前来た時は、かなり薄れた文字でした。

 

ここには大蛇伝説があったのですね。

三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙庭は七つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちたという。

 

『上野国郡村誌』の佐位郡今井村史跡に、毒島城墟があります。

村ノ西北ニアリ、東西四町南北二町五拾間、四面高岡ニシテ中央ニ凹處七八段アリ、古ハ其周回沼ナリシト云、城主不詳、土俗ノ口碑ニ在昔此城寇ノ為攻ラル、池深クシテ抜ケズ、毒ヲ池水ニ投シテ之ヲ滅ス、因テ毒嶋ノ名アリ、其毒ヲ搗(つき)シ石臼今西北ノ松林中ニアリト云フ

少し違う話のようです。

 

いずれにせよ、石臼で突いて毒を作ったのです。

トリカブトの根を石臼で突いたのかな?

 

 

中心の小高い本郭に上ります。

腰郭のあとは、農地になってます。

道が舗装されています

本郭も農地として利用されているようです。

前は、西に下りる道があった様な気がします。

 

まあ、無理をせずに退却しましょう

見晴らしの良い時代もあったのでしょう。

沼の跡は田んぼになっています。

 

説明板の所から、西を望みます。

あそこは、古墳群のある大室(前橋市)です。

 

 

西側を廻って帰ります。

やっぱり道があります

農業用かな?

左手の森の中(城の北西)に、毒を突いた石臼があるのかな?

 

突き当たりを右折して帰ります。

毒嶋城を裏から見て帰ります

沼の中に浮かんだ城ですね

見ようによっては、穏やかな風景にもみえます。

この付近に、他に「ぶすじま」の地名はないようです

このあたりに、「布須島尼」がいたかもしれません

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その3(福田山大林寺)

2022-09-14 19:54:53 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

彼岸花が咲き始めたよ

ひめちゃんは興味がないようです。

お腹にいい草かな、食い付いています

 

山上の蓮田を廻って帰ります。

稲穂は倒れてしまっているのに、蓮は花も葉も元気です

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

赤堀の念仏往生譚の第28話・第29話を確認です。

第廿八 同国赤堀紀内男

盛年之比。以博奕成業。而建長元年閏十二月或時戌剋許。僧二人出来告云。汝近日可生極楽。早遂出家也。件僧経一夜。至其朝不知行方。其後出家。俄痢病更発。兼以十余日 。前両僧又来。毎夜教訓之至。同月廿二日。所住西方墻等悉破去。遙向西方天逝去了。

第廿九 同国同所懸入道

自在俗之時。常高声念仏。至老年遂以出家。至建長三年五月廿四日。仏来告云。来六月二日辰時可往生云々。仍廿五日樹市中。告諸人云。来月二日可往生 。諸人来結縁云々。人々不信之。或人至其期。相尋之処。至其門辺。聞有火急之声。即是彼最後念仏也。看病云。只今沐浴潔斎。着紙衣袈裟。端座向西。火急念仏。五十余遍。即臨終了。智阿弥陀□止見之語之。

(『日本思想体系 7 往生伝・法華験記』1974岩波書店)

 

前者は、若い頃博打打ちだったけれど、念仏往生した人の話です。

後者は、ずーと信心深く、老年になって出家、仏のお告げを受けて、市中に立って、「私は来月二日に往生します。みなさん来て、結縁してください。」と云って、往生していった人です。

 

 

主人公たちは、どうも街中にいたようです

赤堀には市場町という地名があります。

古来市が立って賑やかな所だったのでしょう

そして、今も賑やかです

 

(2020年の9月)ベイシアショッピングモールの隣の、福田山大林寺を訪ねました。

 

大林寺については、検索してもほとんど何も出てきません。

ふと『ぐんまのお寺 曹洞宗Ⅱ』(上毛文庫 平成15年)を開いてみました。

ありました

大林寺は慶長十九甲寅年(1614)に、赤堀入道昌翁藤繁居士の開基、秀山梵芝和尚の開山によって開創された寺である。

開基の赤堀入道は秀郷流藤原氏の一族、名門赤堀氏の一族であろう。・・・(中略)・・・寺の開創と開山については異説がある。境内に「鬼の足跡」と呼ばれる安山岩の自然石の平らな面に線刻で二つの塔婆が描かれている。右手に寛永四年(1627)丁卯年霜月廿四日、傑山安置開山。左手は海月二世という文字が読める。

 

この門柱、今までは「ちょっと狭いかなと」ハンドルを切れませんでした。

今回はベイシアから歩いて訪問です。

 

参道右手に、ちょっと不機嫌そうだけど、目立つ如意輪観音です。

 

参道を進むと、真っ赤な山門(仁王門)です。

仁王様は、ガラスの向こうにしっかりしまわれています。

 

 

 

仁王門を抜けると、左手に幼稚園です。

 

 

参道を進みます。

とっても大きなお地蔵様です。

前掲書によれば、あの高遠石工(たかとういしく)の作品だという事です

 

おや、こちらのお地蔵様は、ロープで縛られています。

ちょっとつらそうです

どうも改装工事中のようで、雑然としています。

 

改装工事なんて関係ない子達もいます。

 

 

本堂前にも、工事用車両です。

横から、失礼します。

福田山の山号が見えます。

 

 

左後ろには、真っ赤な鐘楼堂です。

赤い鐘楼堂と青松とのコラボ、いいですね

 

 

さて、本堂の左手は古い墓地です。

 

左奥の大きな石が気になります。

何か書いてあるようですけど、読めません。

もしかしたら、これが「鬼の足跡」?

 

和尚さんの墓標も俗人の墓標も、雑然と存在するようです。

奥に変わった形の墓があります。

 

変形板碑?

 

あの変わった墓の方に行ってみます。

「木火土金水(もうかどごんすい)」ですって

前掲書には、何も記載がありません。

 

本堂前で、もう一度参拝です。

あれ、蓮と黄金色の狛犬が居たんですね。

 

雑然としていたけれど、かえって市場町の雰囲気でした

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その2(三界萬霊)

2022-09-12 21:22:28 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

タバサねーちゃんは、2008年の7月に生まれました。

一緒に生まれたきょうだいには、黒柴の「小太郎」と「ねね」がいました。

なぜか、タバサにだけは色がありませんでした

でも、きょうだいみんなで仲良く思いっきり遊びました。

ママ、少し後ろに「ねね」、前に小太郎、タバサです。

「ねね」はおとなしい子だったのです。

小太郎とタバサは積極的な子だったのです。

 

きょうだいたちが養子に行ってしまうと、ののこねーちゃんとよく遊びました。

生後半年くらいのタバサねーちゃんです。

七海ママとののこねーちゃんと一緒に、ミニドッグランでよく遊びました。

なんとなくみんな似ている

親子姉妹だから当たり前だけど。

時には、ののこねーちゃんとやり合うこともありました

でも、3名でよく一緒にミニドッグランで遊びました

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

「念仏往生伝」に記された、赤堀の往生人はどこに住んでいたのか?

このうちの2人、赤堀紀内男と懸入道は、たぶん人の多いところだったのでしょう

毒島尼は西方の毒島城の辺りでしょう。

市場町が気になります

 

地図で市場町を眺めると、区民センターに「三界萬霊(さんがいばんれい)」という札所・寺院があります

行ってみよう

 

山車庫の前に、広い駐車スペースがあります(訪問は21年2月です。)。

廃品回収もここで行われるようです。

地域の中で生き残っているのです。

 

右手にお堂らしき建物があります。

石造物もあります。

僧形の墓石もあります。

タバサねーちゃん、情報収集中です。

 

お堂の東にも山車庫です。

市場町一丁目は、2台の山車があるのでしょう。

 

建物(お堂)には、三界萬霊とあります

三界萬霊とは、この世の全ての霊を祀っているということでしょうか?

 

向こうの方に石宮が見えます。

山車があって石宮があって、庚申塔があって、僧形の墓石があって、神仏融合している感じです

失礼します

ご本尊は、釈迦牟尼仏でしょうか?

合掌

 

あれ、さっきの庚申をよく見ると、3猿が1名ずつ別の面にいます

初めてです

細い通りなので、ウオーキングの人もけっこう通ります。

 

地元のおばさんらしき人が、タバサねーちゃんに、「かわいいね

「ありがとうございます。あのう、ここにはお寺があったんですか?」

「まだやってるよ。坊さんはよそから呼んでるけど。」

「ええッ、どこのお寺ですか?」

「そこの大林寺だよ。」

「ありがとうございます。」

 

赤堀ベイシアの隣、大林寺も近くでした

ここは人々の行き交う市場町でしたね

 

さて、お使いして帰りましょうね

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その1(磯沼と十二所古墳)

2022-09-09 14:03:26 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今朝はなかなか雨が止まず、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、小雨の中をお散歩に出ました

何時の間にか雨も止んで、諏訪神社の向こうの高台を突き当たりまで歩きました

山上城跡公園の南を帰ります。

 

2人の足は、ケンくんちに向かいます。

ケンくん、いるかな?

 

逢えましたけど、ガラス越しの逢瀬でした。

 

でも、逢えて良かったですわ

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

上野国山上に住んでいた行仙上人(ぎょうせんしょうにん)が編纂したという『念仏往生伝』には、赤堀で念仏往生を遂げた人が3人でてきます。

 

第28話・赤堀紀内男、第29話・同所懸入道、第30話・毒島尼の3名です。

 

第廿八 同国赤堀紀内男

盛年之比。以博奕成業。而建長元年閏十二月或時戌剋許。僧二人出来告云。汝近日可生極楽。早遂出家也。件僧経一夜。至其朝不知行方。其後出家。俄痢病更発。兼以十余日 。前両僧又来。毎夜教訓之至。同月廿二日。所住西方墻等悉破去。遙向西方天逝去了。

第廿九 同国同所懸入道

自在俗之時。常高声念仏。至老年遂以出家。至建長三年五月廿四日。仏来告云。来六月二日辰時可往生云々。仍廿五日樹市中。告諸人云。来月二日可往生 。諸人来結縁云々。人々不信之。或人至其期。相尋之処。至其門辺。聞有火急之声。即是彼最後念仏也。看病云。只今沐浴潔斎。着紙衣袈裟。端座向西。火急念仏。五十余遍。即臨終了。智阿弥陀□止見之語之。

第三十 同所布須島尼

年来念仏者也。信心殊深。剰若有病者。以念(以下欠落)

(『日本思想体系 7 往生伝・法華験記』1974岩波書店)

 

28話の主人公は、若い頃博打打ちだったけれど、念仏往生した人の話です。

29話の主人公は、は、ずーと信心深く、老年になって出家、仏のお告げを受けて、市中に立って、「私は来月二日に往生します。みなさん来て、結縁してください。」と云って、往生していった人です。

30話の主人公は、欠落部分が多くてよく分かりませんけれど、信心深い世話好きのおばさんの姿が思い浮かびます。

 

 

 

赤堀の念仏往生譚(ねんぶつおうじょうたん)が何処の話かわかりませんけど、布須島尼と関係ありそうな毒嶋城の近くということで、磯沼をちょっと散策です。

(訪問は2020年8月です。)

沼の周りを、現在地からほぼ赤い線で左回りに散策です。

 

網が張ってあります。

鯉か何かいるのでしょうか?

 

振り向いて堤の上には、弁財天です。

 

その向こうには、小さな円墳が、ポツンと寂しそうです

隣は、天幕城趾のあかぼり蓮園です。

堀切跡が蓮園になってます。

 

沼の畔には管理用のボートでしょうか?

アオサギが1羽舞い降りてきましたけど、シャッターチャンスを逃してしまいました

でも、よく見るといます。

ボートの向こうに水面に影を映しています

 

出口です。

桜の季節には、網も気にならない花の名所なのでしょう。

ここから駐車場まで道路を歩きます。

 

駐車場に不思議な建造物があります。

周辺の景色に馴染むように工夫されたデザインのトイレです。

 

 

近くにある十二所古墳、まだ行った事がありません。

行ってみましょう

駐車スペースが見つからなくて、ちょっとウロウロ

橋の名は、十二所橋です。

大正用水にかかる十二所橋です。

 

橋のたもとにちょっと駐車して、いざ古墳へ

 

前方後円墳だったんですか

未発掘なんですね

赤城山がよく見えます

天幕城もよく見えます

長い間歴史を見つめてきたんですね。

おつかれさま

 

元博徒で念仏往生した人は、たぶんもっと街中に住んでましたね

市中に立って往生を触れた人も、市中にいたはずです

毒島尼は、毒島城の近所かな?

 

赤堀には、市場町の地名があります

今度はそちらを歩いてみましょう

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

波志江の老女の面影を求めて・その4(愛宕神社)

2022-09-05 14:20:50 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、こぬか雨降る堀之内を北に出ます

久しぶりに、高縄の集会所です。

花いっぱい運動で、酷暑にも花は途切れなかったようです

雨は止んだよ

ご褒美ちょうだい

以前はミニジャーキーなども持って行きましたけど、最近はツブツブカリカリのドッグフードを少し持って行きます。

 

帰り道、道ばたには、早くも栗のいがが口を開けていました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

「念仏往生伝」第27話は、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母 です。

第廿七 上野国淵名庄波志江市小中次太郎母

年八十二。建長六年(甲寅)春往生。兼十七日。高声念仏不懈。最後臨終。端座合掌。金色光明。遙自四方。徹葦墻二重而照。又人々見紫雲瑞 。莫不稱美。

 

 

(2020年8月15日)シイの木公園に行くときに、気になった神社にも寄って行きます

駐車場がはっきり分かりませんでしたけど、とりあえず神社の後ろの空き地に駐車です。

 

脇道から入っていくと、まず目に付いたのが「波志江の屋台」の説明板です。

この地域は台地上にあり、水利に恵まれない土地柄で、壮麗な雨乞祭礼を子なったので「雨乞屋台」の別名がある。

 

ええ、ここは雨乞いをしなければならないほど、水に困った土地ですか

だって、さほど離れていない波志江沼のあたりは、滾々と湧き出て尽きる事を知らない七つの泉があったというのに

 

鳥居から入り直しです。

村社愛宕神社(あたごじんじゃ)とあります。

 

右の狛犬です。

左の狛犬です。

ふっくらめの穏やかな狛犬です

神楽殿が見えます。

 

 

すっきりときれいな拝殿です

開け放たれているのがいいですね

 

参拝の作法が、ちゃんと指示されています。

2礼2拍1礼で、参拝です

 

 

拝殿脇に、愛宕神社社殿造営祈念碑があります。

「大正2年秋に金蔵寺(こんぞうじ)と土地交換して移転した」とあります。

そういえば、『上野国郡村誌』佐位郡波志江邨には、「村ノ西方ニアリ」とあります。

でも、木々はうっそうとして鎮守の森の雰囲気です。

 

その後ろの宝塔には、注連縄があります。

古い社額も保存されています。

 

宝塔には何か刻んでありそうですけど、わかりません。

宝塔は、中世の石造物です。

平安時代後期からみられ、鎌倉時代中期から後期にかけて急速に普及したということです。

 

あれ、もしかしたら?

もしかするかも?

この日一番の、『念仏往生伝』上野国淵名庄波志江市小中次太郎母の面影でした

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする