ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

考える日曜日だった

2008年11月02日 | その他もろもろ
ゆーくんが風邪をひいて3日。熱はまだ下がりきらず、朝は離乳食を吐いてしまった。鼻や喉が辛そう。いや、辛いに違いない。なぜなら私も同じ風邪だから。

従って、外出はできない。Jくんとパパガスパールは教会に行った。

ゆーくんが寝ているときは職場関係の書類を書いたり、メールをしたり、時々休んで読書。いろんなことを考える。料理をしながら、やはりいろんなことを考える。

仕事のことを考える。
嫌な季節がやって来た。意向調査だ。
これが私には甚だしい苦痛だ。
なぜか分からないが、就活なら志望動機だ、意向調査ならキャリアの展望だ、というのを書くのが苦痛で仕方がない。
よく私みたいのが、一応ながら社会人なのか不思議で仕方がない。ニートとやらは他人事と思ったことはない。(もちろん、今、職をなくしても、世間的には「主婦」という立場肩書き役割があるのだが、“家庭外労働をする私”は私の半分を占めているのだから。)

しかし一定数私みたいな人はいるのだろう。
見えない似た者さんたちを思い、何とか勇気を出して、年に一度の時を乗り切るしかない。
すべきはただひとつ。
逃げない。

何故か分からないと書いたけど、ひとつには内外にある「呪縛」から来るのだ。「おのれは何をしても無駄なのだから、黙って大人しく隅っこで生きておれば良い」「誰にも関わるな、ただ小さくなっていろ」という呪縛から。
…なんでこんな呪縛に囚われたんだろうなぁ…。
内外両方からのもの、という気はするが。

それから。
キリスト教について考える。
一般にキリスト教徒が蛇蛞のごとく嫌う(らしい。ま、仕方ないかな)TK氏の著作に、今はかなりの共感と痛快さを覚えつつ読んでいる。

しかしそれでも私はまだまだ「聖書」は捨てられないなぁ。もちろん、一定の決まりに盲従して読むのは嫌だけど。でもたくさんのドラマが、私に語りかけて来るのだから。聖書は結論の書じゃない、問題提起の書だと思うから。

ちなみに、宗教的な説話なり教義なりが、弱い立場、苦しみにある者に対して、骨抜きにし諦観や従順を植え付けるのか、エンパワーし生かすのか…それを常に注視し注意していく必要があるだろう。
また、宗教的な物事は得てして、その両面を持っているような気がする。だからこそ、注意しながら…ということが出てくるわけだ。

ああ、でもこれじゃ「イエス教徒」「聖書教徒」ではあっても「キリスト教徒」とは言えないかもしれない。
でもそんなこと、今、私が結論出さなくてもいい。片足を教会の中に突っ込んだり、または両足しっかり踏み込んで尚、中から手を空や外へ伸ばす人は…これまた一定数いるはずだから。

そんなことより目先の問題。
風邪で不機嫌ゆーくん×世話に追われて自分の風邪が治せない桜泉=さみしいJくん。

ただでさえ難しいところがあるJくん荒れる×ゆーくん不機嫌=桜泉子供たちに当たる。

これはいけない。
母も人とはいえ、…1、2、3の深呼吸が足らなかった。
自己嫌悪…。寝よう。