テルグ語映画『RRR』の観客リアクションをチェックしていると、感知能力というか鑑賞センスの良さに感心するものが散見される。
それらの発信者は、インドについてほとんど知らない、インド映画もあまり見たことがないのが明らかなのだが、本編の主要な裏メッセージのひとつを察知し、違和感や抵抗感を覚えている。
何に対してかというと、ラーマの真の目的とその遂行に対してである。
たとえば、ビームが公開鞭打ちされるシーンで、見せしめのために集められたインド人群衆が、ビームに対する仕打ちにたまりかねて、徒手空拳ながら反抗するくだりがある。それなりにダイナミックな描写だが、物語はこの観点からは発展していかない。むしろフォーカスされるのは、英国植民地政府から武器を奪取することのほうである。
『RRR』後半では、インド人でありながら植民地政府に仕える警察官として、出世の野心に燃えるラーマの、真の目的が描かれる。そのよりどころである少年時代のフラッシュバックが、かなりの尺を取る。
ラーマの父も警察官だったが、総督の圧政に耐えかねて職を辞し、出身の村に帰って村人たちに反英闘争としての武装訓練をほどこしていた。その村を英国軍が襲う。
村に1挺だけあったライフルの試射で、射撃の腕を認められていたラーマは、父とともに応戦する。ここでの父の教えが、その後のラーマの人生を決定する。すなわち、1挺のライフルで英国軍の小隊に立ち向かうことができるのだから、村人全員が武器を手にできたら英国を倒すことも夢ではないというものだ。
もっとも、反英闘争で名高いお尋ね者でも匿っていたというならともかく、こんな小さな村をなぜわざわざ、英国軍が襲ってくるのかという疑問のほうが先に立つ。
だが、そういう不自然さによって、何がなんでもラーマに目的を達成させることが、つくり手の主要な意図のひとつなのだろうと実感する。
ラーマが出世にこだわったのは、総督府の武器庫の管理を手中に収めるためだった。そして真の目的は、武器を略奪して村に帰り、村人全員を武装させることだった。まさにラーマ神のよそおいで(しかしバラモンの聖紐は忘れず)英国人を血祭りに上げたラーマが、終盤、大量の銃器を土産に故郷の村に凱旋する。村人たちがライフルを手にして鬨の声を上げる様子が、ラストのアイテムナンバーの合間に挿入される。
この「神のよそおい」+「武器の獲得」という描写だが、アナンド・パトワルダン監督のドキュメンタリー『理性』〈Vivek/Reason、2018〉を見た観客なら、やはり既視感を覚えるはずだ。
ここで参考までに、『理性』未見の日本の読者や観客のために、少なくとも英語字幕がついた同作が、どこかにアップされないかと思ってきたのだが、いまのところ非営利団体によるヒンディ語字幕版ぐらいしかない。
ただ、このページから16分割して上げているバージョンについて、ボランティア有志が英訳したものがグーグルドキュメントにある。
ちなみに私は2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の取材時、英語字幕が入っている『理性』を見て記録を取っている。現在それらと照らし合わせる余裕がないが、概要を把握するうえでは参考になるかと思う。
さて、先の記事で言及したサーヴァルカルは、アミット・シャー内務大臣に限らず、ヒンドゥ右翼が礼賛するイデオローグの筆頭である。かれらはサーヴァルカルを、姓名の前に veer(ヒンディ語で「勇敢な」の意)をつけて呼ぶ。この “勇敢さ” のなかみについては別途触れる。
『理性』終章(=第8章;Epilogue)では、シャー内相の賛辞のあとに、2014年に刊行されたサーヴァルカルの詩集が提示される。マラーティ語映画『裁き』(2014)のレビューに書いたように、インド亜大陸では、詩はただ読むだけでなくメロディをつけて歌うものである。『理性』には出てこないが、詩集から一部を抜粋した CD も発売されている。
詩集に序文を寄せ、CD でもそれを朗読しているのが、ボリウッドの大御所アミターブ・バッチャンだ。直接的には、父親が著名な詩人であったことと、バリトンを活かしたナレーションに定評があることから依頼があったのだろうが、それにしてもである。
彼には1980年代、国民会議派に担ぎ出されて国会議員を務めた、自身にとっても非常に快くないであろう過去がある。以後は、それゆえの「ノンポリ」というか「八方美人」という印象が私には強いが、ここでは割愛する。
『理性』で、サーヴァルカル詩集カバーに重ねられる、アミターブのナレーションはこうである。引用は以下、読みやすいよう、適宜句読点を配している。この動画の7:10あたりから。
Brave Savarkar believed that to ensure peace in the universe and control evil, even God picks up weapons.
サーヴァルカルは信じた。全世界の平和のためには悪の制圧が必要であると。そのためには神でさえ武器を手にする。
続いて、ヒンドゥ右翼のストリートパフォーマンス、剣を構える女たちやヌンチャクの実演などが映しだされる背後に、このような歌が流れる。この動画の7:40前後から。
Tigers, crocodiles, snakes and lions roam the world
Only with weapons can Man occupy the Earth
Lord Ram had bow and arrow, Vishnu, a discus
They all take up weapons for self defence
Remove restrictions on acquiring weapons
Get weaponized and instantly powerful
猛虎やワニ、毒蛇や獅子がいたるところに徘徊している。
武器を手にすることだけが、人が地上に栄える道。
ラーマ神なら弓矢、ヴィシュヌ神は円盤を。
神々もみな自衛のために武装している。
武器所持規制を撤廃しよう。
武装してすぐさま力を得よう。
英語字幕の discus とは、ナラヤンアーストラ(Narayanastra)と呼ばれる円盤状の武器のことである。
先に、ヒンドゥ右翼は、М・ガンディが独立運動の手段に用いたアヒンサー(ahimsa; 非暴力)を憎悪し、返す刀でヒンドゥ教徒ひとりひとりの武装を強調すると書いた。また、『RRR』アイテムナンバーにおける実在人物の人選から受けとれる暗喩にも触れた。
そのアイテムナンバーにいたる直前まで、究極の目的である「武器の大量略奪」のため「ラーマ神のよそおい」で大立ち回りを演じるラーマ。
たとえば『理性』第4章「永遠なる宗教」(Sanatan(eternal)Religion)の1シーンを想起してしまう。
1992年のバブリマスジッド破壊を主導した、RSS 傘下の VHP(世界ヒンドゥ協会)のサイトから引用されるクリップである。Sadhvi Saraswati(サドヴィ・サラスワティ)という当時13歳の少女が、VHP の集会でアジテーションしている。この動画の2:17あたりから。
A song claims we won freedom without shield or sword thanks to a miracle by Mahatma Gandhi. I despise this song. If freedom could be won without violence, Ram would have Sita to spin cotton to get Ravan to release her. Hindus, become Ram and get your bow and arrow ready. Those who eye India will have their eyes gouged out and thrown to vultures.
ガンディの奇跡により、盾や銃剣に頼ることなく植民地支配からの解放を得たという歌があります。くだらないと思います。暴力なしで自由が勝ち取れるなら、(古代叙事詩『ラーマーヤナ』の)ラーマ王子は(魔王に拉致された)シーター妃にこう言ったでしょう。「解放してもらえるよう、魔王のために綿を紡ぐがよい」 ヒンドゥ教徒にうったえます! 私たちもラーマ王子になって、弓と矢を手にするのです。インドに邪な視線を注ぐ者がいたら、それらの目をえぐり出しハゲワシのエサにしてやりましょう。
綿を紡ぐうんぬんとは、もちろんガンディを指している。
ガンディは、これも独立運動の手段として、英国製品を排しインド製品を愛用奨励するスワデシ(Swadeshi: 国産品愛用)を提唱した。その象徴が、歴史テキストなどでよく見かける、素朴な糸車をまわして綿糸をつむぐ姿である。かつてバリスター(barrister: 法廷弁護士)として、英国製のスーツが定番だった時代からの激変だ。
参考までに、ガンディのロイヤーとしての主舞台は英領南アフリカ連邦(当時)で、シャーム・ベネガル監督の英語映画『The Making of the Mahatma』〈偉大なる魂が目覚めるまで、1996、南ア=印〉に詳しい。
ついでに、サドヴィ・サラスワティはどうしているかを少し調べてみたところ、VHP のアジテーターとしてますます意気軒高のようだ。
ヒンドゥ右翼のロジックというのは、組織・団体こそおびただしくあるが、似たり寄ったりである。かつ、その得意技は、詭弁と、臆面もない二枚舌と、史実の改竄および都合のいい部分のつまみ喰いだ。かれらのロジックと動向に無関心・無警戒でいる者、政治的センスの弱い者を篭絡することなど朝飯前なのである。
それらの発信者は、インドについてほとんど知らない、インド映画もあまり見たことがないのが明らかなのだが、本編の主要な裏メッセージのひとつを察知し、違和感や抵抗感を覚えている。
何に対してかというと、ラーマの真の目的とその遂行に対してである。
たとえば、ビームが公開鞭打ちされるシーンで、見せしめのために集められたインド人群衆が、ビームに対する仕打ちにたまりかねて、徒手空拳ながら反抗するくだりがある。それなりにダイナミックな描写だが、物語はこの観点からは発展していかない。むしろフォーカスされるのは、英国植民地政府から武器を奪取することのほうである。
『RRR』後半では、インド人でありながら植民地政府に仕える警察官として、出世の野心に燃えるラーマの、真の目的が描かれる。そのよりどころである少年時代のフラッシュバックが、かなりの尺を取る。
ラーマの父も警察官だったが、総督の圧政に耐えかねて職を辞し、出身の村に帰って村人たちに反英闘争としての武装訓練をほどこしていた。その村を英国軍が襲う。
村に1挺だけあったライフルの試射で、射撃の腕を認められていたラーマは、父とともに応戦する。ここでの父の教えが、その後のラーマの人生を決定する。すなわち、1挺のライフルで英国軍の小隊に立ち向かうことができるのだから、村人全員が武器を手にできたら英国を倒すことも夢ではないというものだ。
もっとも、反英闘争で名高いお尋ね者でも匿っていたというならともかく、こんな小さな村をなぜわざわざ、英国軍が襲ってくるのかという疑問のほうが先に立つ。
だが、そういう不自然さによって、何がなんでもラーマに目的を達成させることが、つくり手の主要な意図のひとつなのだろうと実感する。
ラーマが出世にこだわったのは、総督府の武器庫の管理を手中に収めるためだった。そして真の目的は、武器を略奪して村に帰り、村人全員を武装させることだった。まさにラーマ神のよそおいで(しかしバラモンの聖紐は忘れず)英国人を血祭りに上げたラーマが、終盤、大量の銃器を土産に故郷の村に凱旋する。村人たちがライフルを手にして鬨の声を上げる様子が、ラストのアイテムナンバーの合間に挿入される。
この「神のよそおい」+「武器の獲得」という描写だが、アナンド・パトワルダン監督のドキュメンタリー『理性』〈Vivek/Reason、2018〉を見た観客なら、やはり既視感を覚えるはずだ。
ここで参考までに、『理性』未見の日本の読者や観客のために、少なくとも英語字幕がついた同作が、どこかにアップされないかと思ってきたのだが、いまのところ非営利団体によるヒンディ語字幕版ぐらいしかない。
ただ、このページから16分割して上げているバージョンについて、ボランティア有志が英訳したものがグーグルドキュメントにある。
ちなみに私は2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の取材時、英語字幕が入っている『理性』を見て記録を取っている。現在それらと照らし合わせる余裕がないが、概要を把握するうえでは参考になるかと思う。
さて、先の記事で言及したサーヴァルカルは、アミット・シャー内務大臣に限らず、ヒンドゥ右翼が礼賛するイデオローグの筆頭である。かれらはサーヴァルカルを、姓名の前に veer(ヒンディ語で「勇敢な」の意)をつけて呼ぶ。この “勇敢さ” のなかみについては別途触れる。
『理性』終章(=第8章;Epilogue)では、シャー内相の賛辞のあとに、2014年に刊行されたサーヴァルカルの詩集が提示される。マラーティ語映画『裁き』(2014)のレビューに書いたように、インド亜大陸では、詩はただ読むだけでなくメロディをつけて歌うものである。『理性』には出てこないが、詩集から一部を抜粋した CD も発売されている。
詩集に序文を寄せ、CD でもそれを朗読しているのが、ボリウッドの大御所アミターブ・バッチャンだ。直接的には、父親が著名な詩人であったことと、バリトンを活かしたナレーションに定評があることから依頼があったのだろうが、それにしてもである。
彼には1980年代、国民会議派に担ぎ出されて国会議員を務めた、自身にとっても非常に快くないであろう過去がある。以後は、それゆえの「ノンポリ」というか「八方美人」という印象が私には強いが、ここでは割愛する。
『理性』で、サーヴァルカル詩集カバーに重ねられる、アミターブのナレーションはこうである。引用は以下、読みやすいよう、適宜句読点を配している。この動画の7:10あたりから。
Brave Savarkar believed that to ensure peace in the universe and control evil, even God picks up weapons.
サーヴァルカルは信じた。全世界の平和のためには悪の制圧が必要であると。そのためには神でさえ武器を手にする。
続いて、ヒンドゥ右翼のストリートパフォーマンス、剣を構える女たちやヌンチャクの実演などが映しだされる背後に、このような歌が流れる。この動画の7:40前後から。
Tigers, crocodiles, snakes and lions roam the world
Only with weapons can Man occupy the Earth
Lord Ram had bow and arrow, Vishnu, a discus
They all take up weapons for self defence
Remove restrictions on acquiring weapons
Get weaponized and instantly powerful
猛虎やワニ、毒蛇や獅子がいたるところに徘徊している。
武器を手にすることだけが、人が地上に栄える道。
ラーマ神なら弓矢、ヴィシュヌ神は円盤を。
神々もみな自衛のために武装している。
武器所持規制を撤廃しよう。
武装してすぐさま力を得よう。
英語字幕の discus とは、ナラヤンアーストラ(Narayanastra)と呼ばれる円盤状の武器のことである。
先に、ヒンドゥ右翼は、М・ガンディが独立運動の手段に用いたアヒンサー(ahimsa; 非暴力)を憎悪し、返す刀でヒンドゥ教徒ひとりひとりの武装を強調すると書いた。また、『RRR』アイテムナンバーにおける実在人物の人選から受けとれる暗喩にも触れた。
そのアイテムナンバーにいたる直前まで、究極の目的である「武器の大量略奪」のため「ラーマ神のよそおい」で大立ち回りを演じるラーマ。
たとえば『理性』第4章「永遠なる宗教」(Sanatan(eternal)Religion)の1シーンを想起してしまう。
1992年のバブリマスジッド破壊を主導した、RSS 傘下の VHP(世界ヒンドゥ協会)のサイトから引用されるクリップである。Sadhvi Saraswati(サドヴィ・サラスワティ)という当時13歳の少女が、VHP の集会でアジテーションしている。この動画の2:17あたりから。
A song claims we won freedom without shield or sword thanks to a miracle by Mahatma Gandhi. I despise this song. If freedom could be won without violence, Ram would have Sita to spin cotton to get Ravan to release her. Hindus, become Ram and get your bow and arrow ready. Those who eye India will have their eyes gouged out and thrown to vultures.
ガンディの奇跡により、盾や銃剣に頼ることなく植民地支配からの解放を得たという歌があります。くだらないと思います。暴力なしで自由が勝ち取れるなら、(古代叙事詩『ラーマーヤナ』の)ラーマ王子は(魔王に拉致された)シーター妃にこう言ったでしょう。「解放してもらえるよう、魔王のために綿を紡ぐがよい」 ヒンドゥ教徒にうったえます! 私たちもラーマ王子になって、弓と矢を手にするのです。インドに邪な視線を注ぐ者がいたら、それらの目をえぐり出しハゲワシのエサにしてやりましょう。
綿を紡ぐうんぬんとは、もちろんガンディを指している。
ガンディは、これも独立運動の手段として、英国製品を排しインド製品を愛用奨励するスワデシ(Swadeshi: 国産品愛用)を提唱した。その象徴が、歴史テキストなどでよく見かける、素朴な糸車をまわして綿糸をつむぐ姿である。かつてバリスター(barrister: 法廷弁護士)として、英国製のスーツが定番だった時代からの激変だ。
参考までに、ガンディのロイヤーとしての主舞台は英領南アフリカ連邦(当時)で、シャーム・ベネガル監督の英語映画『The Making of the Mahatma』〈偉大なる魂が目覚めるまで、1996、南ア=印〉に詳しい。
ついでに、サドヴィ・サラスワティはどうしているかを少し調べてみたところ、VHP のアジテーターとしてますます意気軒高のようだ。
ヒンドゥ右翼のロジックというのは、組織・団体こそおびただしくあるが、似たり寄ったりである。かつ、その得意技は、詭弁と、臆面もない二枚舌と、史実の改竄および都合のいい部分のつまみ喰いだ。かれらのロジックと動向に無関心・無警戒でいる者、政治的センスの弱い者を篭絡することなど朝飯前なのである。