『ガリーボーイ〈Gully Boy〉』に対する一般観客のリアクションを眺めていると、インドのラップミュージックに初めて接した層が圧倒的であるせいか、だいたい好評価されているようだ。
しかし「肝心の音楽(詞)がピンとこなかった」という感想も、ときどき見かける。
私は、本作のレビューを仕事として書く頭が最初からなかったので、日本語字幕のついたバージョンでは見ていない。ただ、ヒンディ語ラップの歌詞を日本語字幕化する作業は、相当たいへんだっただろうと想像はつく。
もっとも「詞がピンとこない」というのは、本作についてはおそらく、日本語字幕のせいではないだろう。
『ガリーボーイ』が本国公開された際、物語のコンテクストと、ラップ音楽にふつう期待される良い意味での「挑発の切っ先」がそぐわないという批判も、現地メディアにはけっこうあったのだ。
率直なところ、私も当時、同じような感想をもった。
脚本のリーマ・カグティは、『ラガーン〈Lagaan〉』(2001)助監督あたりから映画業界に入り、実験的な作品で監督デビューしたのち、評価すべきサスペンスなどもつくってきたフィルムメーカーだ。
つまり、力のない人では決してないのだが、本作では数多くの曲目をどう物語にはめ込むかで難儀したようなので、意欲と結果がダイレクトに結びつかなかったのだろう。
上述のような現地メディアの指摘は、とくに、ダブ・シャルマによる2曲「Azadi(アザディ)」と「Jingostan(ジンゴスタン)」に集中した(『HuffPost India』2019年1月29日付や、『Firstpost』2019年2月15日付ほか多数)。
では、置かれるべきコンテクストとはどんなものかということで、「Jingostan」をフィーチャーした、おもしろいミュージックビデオがある。
アップ主のクレジットは「Official PeeingHuman」と、「Being=存在する」の代わりに「Peeing=小用する」を当てていてふざけたかんじである。
けれど、各動画の説明を読んでみると、いたってまともな視座をもっているのがわかる。
ジンゴスタンとは、ジンゴイズム(Jingoism; 排他的愛国主義)と、「~の土地」とか「~の国」を意味する接尾辞「-stan」を合わせた造語だ。
ありていにいえば「ジンゴイズムの国」である。
詞と英訳例のサイトもたくさんあるが、とりあえず目についたサイトを貼っておく。
この動画は、説明にもあるように、今年2月のインドによるサージカルストライクと、政府に同調して好戦性を煽ったテレビネットワークのニュース番組、そのアンカーを務める似非ジャーナリストたちを批判するものだ。
ここでついでに、取材であれ何であれインドをまともに知ろうとするなら、テレビなどの電波系メディアには(一部の例外を除き)、相当の懐疑と警戒心をもって接したほうがよい。
メディア対策に余念のないインド人民党(BJP)政権下であれば、なおさらである。BJP 政府におもねる電波系メディアを揶揄する、「Modia」(Modi+Media;モディ首相の宣伝メディア)という造語もあるぐらいだ。
私は昔から、“インド通”を自称する日本の取材者や研究者らのインド観が、なぜあんなにも歪んでいるのか、矮小に堕しているのかと不思議に思うことが多かった。理由のひとつは、電波系メディアにばかり接しているからではないかと疑っている。
本ブログの読者の多くはとうに気づいていると思うが、インドのまともな報道に接したいなら、活字系メディア(とくに英語メディア)に求めるべきである。むろんそれらに問題がまったくないとはいわないにしても。
※訂正(10月24日)※
『ガリーボーイ』のタイトル表記を訂正しました。自動保存した下書きの操作ミスです。
しかし「肝心の音楽(詞)がピンとこなかった」という感想も、ときどき見かける。
私は、本作のレビューを仕事として書く頭が最初からなかったので、日本語字幕のついたバージョンでは見ていない。ただ、ヒンディ語ラップの歌詞を日本語字幕化する作業は、相当たいへんだっただろうと想像はつく。
もっとも「詞がピンとこない」というのは、本作についてはおそらく、日本語字幕のせいではないだろう。
『ガリーボーイ』が本国公開された際、物語のコンテクストと、ラップ音楽にふつう期待される良い意味での「挑発の切っ先」がそぐわないという批判も、現地メディアにはけっこうあったのだ。
率直なところ、私も当時、同じような感想をもった。
脚本のリーマ・カグティは、『ラガーン〈Lagaan〉』(2001)助監督あたりから映画業界に入り、実験的な作品で監督デビューしたのち、評価すべきサスペンスなどもつくってきたフィルムメーカーだ。
つまり、力のない人では決してないのだが、本作では数多くの曲目をどう物語にはめ込むかで難儀したようなので、意欲と結果がダイレクトに結びつかなかったのだろう。
上述のような現地メディアの指摘は、とくに、ダブ・シャルマによる2曲「Azadi(アザディ)」と「Jingostan(ジンゴスタン)」に集中した(『HuffPost India』2019年1月29日付や、『Firstpost』2019年2月15日付ほか多数)。
では、置かれるべきコンテクストとはどんなものかということで、「Jingostan」をフィーチャーした、おもしろいミュージックビデオがある。
アップ主のクレジットは「Official PeeingHuman」と、「Being=存在する」の代わりに「Peeing=小用する」を当てていてふざけたかんじである。
けれど、各動画の説明を読んでみると、いたってまともな視座をもっているのがわかる。
ジンゴスタンとは、ジンゴイズム(Jingoism; 排他的愛国主義)と、「~の土地」とか「~の国」を意味する接尾辞「-stan」を合わせた造語だ。
ありていにいえば「ジンゴイズムの国」である。
詞と英訳例のサイトもたくさんあるが、とりあえず目についたサイトを貼っておく。
この動画は、説明にもあるように、今年2月のインドによるサージカルストライクと、政府に同調して好戦性を煽ったテレビネットワークのニュース番組、そのアンカーを務める似非ジャーナリストたちを批判するものだ。
ここでついでに、取材であれ何であれインドをまともに知ろうとするなら、テレビなどの電波系メディアには(一部の例外を除き)、相当の懐疑と警戒心をもって接したほうがよい。
メディア対策に余念のないインド人民党(BJP)政権下であれば、なおさらである。BJP 政府におもねる電波系メディアを揶揄する、「Modia」(Modi+Media;モディ首相の宣伝メディア)という造語もあるぐらいだ。
私は昔から、“インド通”を自称する日本の取材者や研究者らのインド観が、なぜあんなにも歪んでいるのか、矮小に堕しているのかと不思議に思うことが多かった。理由のひとつは、電波系メディアにばかり接しているからではないかと疑っている。
本ブログの読者の多くはとうに気づいていると思うが、インドのまともな報道に接したいなら、活字系メディア(とくに英語メディア)に求めるべきである。むろんそれらに問題がまったくないとはいわないにしても。
※訂正(10月24日)※
『ガリーボーイ』のタイトル表記を訂正しました。自動保存した下書きの操作ミスです。