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ソテツの葉にクモの卵を見つけた。夏になると近くにはジョロウグモが何匹も巣を作っているから、その子孫の卵だろうか。と思って調べたら、どうも形状が異なるようだ。この卵、ぐるぐる巻かれた糸の中にたくさんの卵がはいっていて、全体を卵のうと呼ぶとのこと。春、温かくなったら「蜘蛛の子を散らすように」中からうじゃうじゃと子グモが飛びだすのだ。おお…。
今読んでいる道元の「正法眼蔵」(の現代語訳のさらにダイジェストだけれど)にある「身心脱落」という言葉が気にいっている。どういうことかというと、もちろん一言では言い表せない、うわっはっはっは、と笑うしかないけれど、たとえば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のエピソードがわかりやすいと書かれている。
お釈迦様がある日、極楽を散歩していて、ふと下界の地獄をのぞくと、大勢の罪人にまじってカンダタが苦しんでいた。彼は極悪人だけれど、ただ一度いいことをしたことがある。といっても林の中で足もとのクモを踏みつぶそうとした時、ふと思いとどまって助けた、というだけ。それでも善行。そこで釈迦は蓮の葉にいたクモから糸をとって地獄にたらした。カンダタは喜んで糸につかまり天上めざしてよじ登ってくる。ところが途中で下を見たら、ぞろぞろと罪人が同じように糸をつかんで登っている。
これじゃあ糸が切れちまう。だめだだめだ、これは俺の糸だ。お前たちは降りろぉ、と叫んだ瞬間、糸は切れてカンダタもろとも全員がもとの地獄に落ちていった…という話だ。
あるがままの世界(現成)「身心脱落」においては自己を脱落させると同時に「他己」を脱落させることも必要であり、前述の自分以外の大勢の罪人がすなわち他己で、糸が切れるという恐怖が煩悩である、と。カンダタがつかんでいる糸そのものが、今そこにあるものが実は仏の世界だから、天上を見ることも下の世界を見ることもなく、ただそこにいることこそ身心脱落である…と。うーむ。他人を気にせず、自分は自分でしかないのだからと思って生きていけばいいじゃないか、とこういうことかと。クモの糸。深い。
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