『式場隆三郎めぐりあい(人や物や)』
式場俊三(編)/私家版s52年
この式場博士がおられなかったら、「長崎の鐘」は出版されなかっただろうといわれています。
この方は、山下清を発掘された方でもあられるようです。
国府台病院(現在の式場病院)を昭和十一年に開院。
医師としても成功されているようです。
それでいて、東京タイムズの社長もされておられたようです。
また、柳宗悦とも友人だったようです。
柳宗悦が「式場君のこと」と題して文章をよせられ、式場隆三郎が「柳さんと民芸館」と題して、柳宗悦のことを書いてもおられます。
ゴッホや棟方志功の価値も教えてくださった方のようです。
永井隆博士のことも書かれています。下「」引用。
「日本の苦しい敗戦生活にあって、世界中から注目をあびたのは、湯川博士と古橋選手と永井さんの三人であったろう。そしてこの三人が、失意に沈む日本人をどんなに勇気づけてくれたか知れない。」
「長崎の鐘」は、出版されて、芝居になり、レコードになり、映画になったようです。
また、映画のことも書かれておられます。下「」引用。
「永井さんが企画して作った十六ミリ映画に「長崎の子」というのがある。あれが世界各国を巡って、大きな感動を与えている。原爆にやられた子どもたちの悲劇、残された浦上の子供たちの雄々しく立ちあがる姿を描いたものだ。」
短編映画「長崎の子」
文庫本になること、廉価版になることを博士は願っていたという。
また、外国で出版されたのは、子供たちの遊び道具となったという。
また、日本ニュースの今ではDVDになっている作品についても書かれてあります。下「」引用。
「日本ニュースだ編集した「永井博士の憶い出」という十六ミリ映画は、永井さんのいろんな姿を記録したものとして価値がある。」
永井博士の思い出
もくじ
Index
目 次
式場俊三(編)/私家版s52年
この式場博士がおられなかったら、「長崎の鐘」は出版されなかっただろうといわれています。
この方は、山下清を発掘された方でもあられるようです。
国府台病院(現在の式場病院)を昭和十一年に開院。
医師としても成功されているようです。
それでいて、東京タイムズの社長もされておられたようです。
また、柳宗悦とも友人だったようです。
柳宗悦が「式場君のこと」と題して文章をよせられ、式場隆三郎が「柳さんと民芸館」と題して、柳宗悦のことを書いてもおられます。
ゴッホや棟方志功の価値も教えてくださった方のようです。
永井隆博士のことも書かれています。下「」引用。
「日本の苦しい敗戦生活にあって、世界中から注目をあびたのは、湯川博士と古橋選手と永井さんの三人であったろう。そしてこの三人が、失意に沈む日本人をどんなに勇気づけてくれたか知れない。」
「長崎の鐘」は、出版されて、芝居になり、レコードになり、映画になったようです。
また、映画のことも書かれておられます。下「」引用。
「永井さんが企画して作った十六ミリ映画に「長崎の子」というのがある。あれが世界各国を巡って、大きな感動を与えている。原爆にやられた子どもたちの悲劇、残された浦上の子供たちの雄々しく立ちあがる姿を描いたものだ。」
短編映画「長崎の子」
文庫本になること、廉価版になることを博士は願っていたという。
また、外国で出版されたのは、子供たちの遊び道具となったという。
また、日本ニュースの今ではDVDになっている作品についても書かれてあります。下「」引用。
「日本ニュースだ編集した「永井博士の憶い出」という十六ミリ映画は、永井さんのいろんな姿を記録したものとして価値がある。」
永井博士の思い出
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