磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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科学 2011-12

2012年03月22日 | 読書日記など
『科学 2011-12』
   田中太郎・編/岩波書店2011年

特集名 核と原発



坂田の言葉、樫本喜一。下「」引用。

「先般、物理学者坂田昌一の論集『原子力をめぐる科学者の社会的責任』(岩波書店)が刊行された。日本で原子力の平和利用が始まりつつあった時、坂田が歩んだ足跡を、我々はようやく追いかけようとしている。-略-
 次のような発言がある。坂田がとりまとめた提言の趣旨が原理・原則を重く見すぎた「抽象論」であり、実際には役に立たないとする別の科学者に対し、彼は「原子炉が未知の要素を多く含み、法則性の的確にとらえられていない装置であり、放射能障害が通常の毒物による障害とは質的にまったく異なった性格のものであることを正しく認識するならば、原子炉の安全性ととりくむためには、まず基本的観点を明確にすることから始めねばならないことが理解できるであろう。何を測っているかわからぬような物指をつくり、それで測って安全だといって見たところで、それこそ観念論であり、国民をごまかすおまじないにすぎない」(論集p.129、以下同様、傍点は筆者)と反論した。福島第一原発の事故調査が完了していない現時点において、ストレステストで安全性を確認云々という論者にも商用原子力発電が開始されるかどうかという時期に語った坂田の認識にはさすがというほかない。」

構造的暴力を含むものを平和などと今どき、語らないで欲しいですね。

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「真実は格納容器の中にある : 「地震損傷なし」に確証はない」田中三彦(サイエンスライター)。下「」引用。

「筆者は、とくに1号機は、長時間の激しい地震動によって、原子炉に直接つながっている何本もの配管(それらをまとめて「原子炉系配管」と呼ぶ)のうちのいずれかが破損または破断し、そこから冷却材(軽水)が猛烈な勢いで噴出する「配管破断による冷却材喪失事故」(LOCA)を起こしたように見えること、また2号機においても、地震動によって、たとえば格納容器の圧力抑制室の現地溶接部や「ベローズ」と呼ばれる蛇腹構造あたりに亀裂が入り、そこから水素が漏出し、圧力抑制室外部近傍で水素爆発が起きたと考えられることを、事故後かなり早い段階から今日まで一貫して主張してきた。
 ただし、前述の“LOCA仮説”を裏付ける物的証拠は存在し“ない”。物証が存在しない理由は単純だ。筆者が考えているLOCAは格納容器の“内側”に起きているからだ。格納容器の内側に入れることができたとしても、原子炉も配管も分厚い断熱材に巻かれ、さらに金属のケーシングで覆われているから、配管破断部を確認することは不可能だ。したがって、かなり遠い未来まで、“LOCA説”は仮説のままである。
 が、他方、それでは政府・東京電力がいまや既成事実のように説いている“原発の安全上重要な施設や機器は地震により重大な損壊を受けていない”に物的証拠があるのかと言えば、これまたそうではない。同じように原子炉格納容器内のことであるから、やはり物証を提示できない仮説でしかない。どちらもかなり遠い未来まで“仮説”のままである。真実は人の立ち入れない格納容器の内側の空間にあり、本質的に、短期のうちに白黒決着がつく話ではない。」

院内勉強会。下「」引用。

「院内勉強会では、最初に筆者が、1号機は地震動によって原子炉系配管が、2号機は圧力抑制室が破損し、最終的に水素爆発を起こした可能性があることを述べた。また10月24日、すったもんだの末ようやく衆議院「科学技術・イノベーション特別委員会」に提出され、即日公表された“黒塗りのない”1号機・運転手順を読むと、とくに非常用腹水器の操作に関するこれまでの東京電力の説明にいくつか疑わしい点であることを指摘した。
つぎに渡辺が「水力学的動荷重」について説明した。彼は、福島第一原発3、5号機や女川原発、浜岡原発の格納容器の設計に携わったほか、約40年前にアメリカで大問題になったマークI型原子炉格納容器の圧力抑制室に加わる「水力学的動荷重」という問題を、1970年代半ばに日本でいちばん理論的に検討した技術者である。渡辺は、今回の原発事故においては、その水力学的動荷重に、さらに地震荷重(地震動そのもの、ならびに後述するスロッシング荷重)が加わり、そのため圧力抑制室が部分的に破壊されたり圧力抑制機能が喪失したりした可能性が高いことを指摘した。
最後に、船舶や化学プラントなどの事故にも詳しい後藤が、マークI型格納容器の圧力抑制室内の大量の水(圧力抑制プール)が地震時に激しく揺れる「スロッシング現象」について述べた。シミュレーション解析結果の一部をカラー・アニメーションで紹介しながら、激しいスロッシングが起きると、原子炉系配管が破断した際にドライウェルから圧力抑制に流入してくる大量の蒸気がうまく圧力抑制室に流入してくる大量の蒸気がうまく圧力抑制プールに導かれず、その結果、格納容器全体の圧力が設計圧を大きく超えるほどに高まる可能性があることを指摘した。」

「格納容器の機能喪失の意味--スロッシングの検証なしに運転してはならない」後藤政志。下「」引用。

「本稿でとくに注目するのは、地震動で引き起こされる水面の動揺(スロッシング)である。2003年の十勝沖地震では、震源から150km以上も離れた苫小牧で石油タンクに被害が多発した。減衰しにくい長周期の地震動が、石油タンクの液面が揺れやすい周期と重なり、揺れが増幅されて大きな被害となった。
 地震動の大きさ(加速度)が巨大でなくても、継続時間が長いと、スロッシングは増幅される。配管破損(破断)が起こって冷却材が噴出する時にスロッシングが重なると、噴出する冷却材を十分に減圧できなくなり、格納容器が破損する。地震動の継続時間がこれまでになく長かったこんかいの地震では、スロッシングガ原発の状況を致命的に悪化させた恐れがあり、十分に検討されねばならない。なお、真空破壊弁の機能喪失も事故の重要な要因になりうる。-略-」

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柏崎刈羽3000件。下「」引用。

「2007年に起こった中越沖地震では、設計条件を大幅に超える地震動が柏崎刈羽原発をおそった。主要構造のシビアな破壊こそ生じなかったものの、全7基のプラントで大小合わせて3000件もの損傷やトラブルが発生した。変圧器の火災が起きたが大規模な事故に至らなかったことは幸運であったと考える。地震動は個々に周波数特性が異なり、それぞれの地震で何が起きるかは断定できない。-略-」

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「保守合同と原子力」 下「」引用。

「1955年11月、保守二党が合同して自由民主党が誕生し、さきに統一した社会党とともにいわゆる55年体制の時代が始まることとなった。自民党の初代鳩山一郎内閣は自民党結党宣言に、「原子力推進、憲法改正、再軍備」を謳った。読売新聞の社主であった正力松太郎は、原子力による産業革命と保守合同をかかげて政界に入り、鳩山内閣の初代科学技術庁長官に就任し、原子力委員会、原子力産業会議などを立ち上げ、原子力推進の道を開いた。-略-」

中曽根ではなく!? 福井勇(当時文部政務次官、後に衆議院自由党)が予算をつけた……。下「」引用。

「後年、福井は30年以上経った1976年に、参議院科学技術振興対策委員会で、1954年の最初の原子力予算のときに文部省に原子力予算をつけたのは、世間では中曽根だったとされるが、実際には、自分と通産省工業技術院院長の駒形作次だと発言している。その半年後にも、同じ委員会で、「中曽根先生と私とでは、実は日本の原子力政策について1億数千万円の最初の予算を組みました」と述べた。この発言は、やや不可解である。まず、当時、文部省についた1億3000万円は原子力核研究所の予算だった。この予算は、学術会議からの申し入れを受けたもので、中曽根が主張したものではない。中曽根予算は合計2億5000万円は工業技術などに振り向けられ、その執行計画を立てたのは、確かに駒形作次だったが、通常の理解では、それは予算成立後の話である。
 当時、中曽根予算は、もともと文部省が用意していた原子核研究所設立予算を転用したという噂があった。もし、福井が「正直に」1954年の経験を30年後に語ったものだとすると、彼の発言は、この噂を肯定したものかもしれない。-略-」

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「読売新聞グループの原子力平和利用キャンペーン」 下「」引用。

「柴田秀利の「毒をもって毒を制する」発言
 1954年当時日本テレビの重役だった柴田秀利は、ビキニ事件後に日本各地で発展した原水爆禁止運動に対して「米国との友好関係に決定的な破局を招く」と危機感を抱き、旧知の米国の要人、ダニエル・スタンレー・ワトソンに「日本には昔から、「毒は毒をもって制する」という諺がある。原子力は両刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ、……希望を与える他にない」と熱弁を振るったとされている。これは柴田秀利の著書『戦後マスコミ回遊記』に登場する有名な言葉で、1994年のNHKの番組でも印象深く描かれた。」

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「頻発する科学者への弾圧事件」 下「」引用。

「原子力の「実用化」がすすみ安全性が問題になると、安全問題で発言する科学者への弾圧事件が頻発する。特に68年6月丹羽氏に代わって理事長に就任した宗像(むねかた)英二氏は、原研の高崎研究所時代に第二組合作りを指導するなど、原研労組嫌いであったが、理事長に就任後は徹底して科学者の発言封じを行った。当時の原研労組についてひと言説明すると、決して原発反対ではなく、当時明らかになった軽水炉技術の問題点である応力腐食割れ、冷却材喪失事件などの討議を行うシンポジウムを毎年開催するなど、労働条件の改善とともに原子力の自主開発を目指した科学者・技術者集団という色彩が濃かった。
 68年、「再処理工場設置反対署名」に村民として署名した原研職員に対して、原研は職場で上司が呼びつけて詰問するなどの弾圧事件を起こすが、その際に宗像氏は理事長訓示の中で「再処理事業についても所が積極的に協力することについては、再三にわたり言明されており、職員等は十分熟知しているところである。しかるに原子力開発利用の途上において起こる種々の問題について、これらの所の方針に反する行動をとった者があることは誠に遺憾である。」と述べている。「原子力の開発推進は国の方針、所の方針であり、この方針に反した行動をとるな」というのは誠に硬直した思考であるが、宗像氏は在任中この方針を貫き様々な事件を引き起こす。
 60年代後半に各電力会社は一斉に軽水炉導入を目指し、各地で原発建設の計画が発表されると、「原発とはどういうものであるか、説明してほしい」という講師派遣要請が続々と原研労組に寄せられるようになった。丹波理事長時代、同氏は組合との会見の席上「中部電力の社長からクレームが来ているので、労組の講師派遣は止めてほしい」と要望している。原発講師への圧力は宗像理事長の就任後、急激に強まる。
 72年三重県熊野市の市民団体から原発講師の派遣要請があり、この際の原研当局の事前の圧力はきわめて厳しいものがあった。組合史によると「(講師の)7名全員が職制に呼び出され原研の名称や原研離職員としての名称を使ったら就業規定違反として処分するという圧力がかけられた。」と記録されている。労組はこのような圧力をはねのて原発講師派遣を続けたが、その後人事考課制度が導入され、「所の方針に従わないものは」昇進させないという差別体制が導入される。筆者は10年前に書いた文章の中で「(原発講師問題に関する所の見解は)本来中立であり、またその中でいろいろな見解を持つ自由が許されてしかるべき研究機関が、「国の政策に反することを言ってはならない」という観点だけから所員の発言を縛り、ひいては自らの態度を縛ってしまうことを意味するものである。このことがその後の研究開発に与えたマイナスの影響はきわめて大きかった。」と書いたが、福島事故後の今日振り返ってみて、当時このような方針をもった理事長が就任し、当局がこのような弾圧を行ったことは、大局的に見て日本のような弾圧を行ったことは、大局的に見て日本の原子力開発における不幸な出来事であったと考えている。
 73年には宗像氏は学術論文への処分という筆禍事件を引き起こす。当時原研所員であり日本学術会議会員でもあった中島篤之助氏が本誌『科学』1973年2月号に「原子炉施設の事故例について」という題の論文を発表したところ、原研当局はこの論文が「読者に誤った影響を与え、ひいては当研究所の名誉と信頼を損なう」ものであるとして、同氏に対して厳重注意の処分を行った。この事件について日本学術会議学問思想の自由委員会は「「自主・民主・公開」の三原則を定めた原子力基本法に基づいて設置されたはずの日本原子力研究所によってそのような措置が取られたことは遺憾である」旨の報告を行っている。
 これら言論抑圧事件は原研の単独プレーではなく背景があるね。それは、時期的に遡るが、67年10月出された「昭和42年度業務監査の結果について(照会)(42原局第1337号)と題する。科学技術庁原子力局長村田浩から原研理事長丹羽周夫宛の文書である。その第2項目「研究成果の外部発表の許可について」において「研究成果の研究員による外部発表については、その可否および内容に関し、所として検討し、許可をする必要がある。現在、貴研究所における許可制度は、高崎研究所を除いて必ずしも十分なものとは言いがたく、また運用上その徹底を欠くうらみがある。したがって、外部発表に関しては許可基準その他所要の事項について明確な規定を制定し、所全体についてその実施を行うべきである。」と述べている。原研ではこれを受けて、外部投稿表などの規制強化が図られ、研究者は、原子力問題、特に安全問題について自由に意見を発表する権利を失っていった。そのきっかけはこの文書が示すように官僚指導で行われてきたのである。このようにして、異論を許さぬ産官学癒着体制が形成されていった。そして「仲良しクラブ」的な癒着態勢が安全を守れないことは、今回の事故の中で各方面から厳しく指定されている。」

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