磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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『放送RCC'65 8 AUGUST VOL.3』被爆後20年とプレスコード

2006年09月01日 | 読書日記など
『放送RCC'65 8 AUGUST VOL.3』
      ラジオ中国s40年

図書館にあった資料です。
珍しいのではないでしょうか?



『ひろしま20年の足跡』と題して、
石井金一郎--広島大学助教授
今堀誠二--広島大学教授
栗原禎子--詩人
平岡敬(司会)--中国新聞編集委員
の対談がありました。

時代区分には、二つあり。
・占領下の運動 「ストックホルム・アピール」
・ビキニから始る原水爆実験禁止の署名運動


【プレスコード時代】
・「中国文化」で“原子爆弾特輯号”
栗原「あのころは福岡で事前検閲をやっていましたね。
そこから「唯一最高の権威をもつものである」というふうな
文面でプレス・コードに違反するといってきたんです。
ですけど、私らはあまりに戦争中の弾圧が
ひどかったものですから、むしろそれに比べたら
占領軍の制限というのはわりあいにこわくなかったですね。
気分的に……」

・都築教授も20年10月に医学論文で
削除を命じられ、削除したが、追放。

・ストックホルム・アピール運動
 署名148,788人(広島)
   6,455,009人(全国)

・原爆傷という言葉削除
今堀「被爆者の団体はたくさんできましたよね。
……その前にね、被爆者の実態調査が打ち切られて、
昭和二十一年から“原爆傷”ということば消えて
なくなっちゃったわけですよ。今出は“原爆症”
ということばは普通のことばですけど、新聞を
ご覧になるとわかりますが全然ないわけです。
そしてこれが復活するのはビキニのころからですよ。
それまでは完全に新聞から消えてるわけですよ。
これはまあ消されたとみるべきでしょうね、
プレス・コード違反ということで……」

・栗原もこれ受けて、その当時は“原爆症”
と医師も書けず結核と書いたと話している。
・原爆症と書けず、結核とか赤痢とか、
違う病名をつけたようであるという。

もくじ


「私の戦後20年」としての文章がありました。
上栗頼登は養護施設「新生学園」を創設。
25歳の見習い士官がはじめたという。

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』の著者も、
文章をよせていました。

テレビのことも書かれてありました。
「36年 鶴よはばたけ 構成 手記より
37年 地表 ドラマ 藤本義一 作
38年 引き裂かれたヒロシマ 構成 高瀬広居 作
40年 忘れられたヒロシマ 構成 小頭児
   ヒロシマ20年  構成  井上光晴 作
   ひろしまの川  構成  被爆した母親」



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