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坂本竜馬を斬った男-幕臣今井信郎の生涯-

2010年01月04日 | 読書日記など
『坂本竜馬を斬った男-幕臣今井信郎の生涯-』
   今井幸彦・編/新人物往来社1983年

1971年刊の新装。表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「今井信郎の孫である著者が、家に伝わる史料を駆使して描いた幕臣今井信郎の数奇なる生涯」



いろいろ言われるという……。下「」引用。

「-略-あの有名な坂本竜馬、中岡慎太郎両人の殺害事件との結びつきにおいてであろう。今井信郎(のぶお)がその謎の刺客に擬せられているからである。そのため彼は、上は小太刀の名手、剣豪から末は国賊、売名奴に至るまで毀誉褒貶余すところない称号を諸人からおくられ今日に及んでいる。」

“ええじゃないか”当時の世相。下「」引用。

「一方、当時の世相はというと、各地に一揆、打ちこわし、背直し騒動の絶え間なく、その年の八月ごろから現代のゴーゴーのようないわゆる“ええじゃないか”という歌とも踊りともつかぬ妙なものがはやりダシ、たちまち熱病のように全国に広まっていた。それとともに天から伊勢神宮のお札が降ってくるという“おふだ降り”伊勢参り、抜け参り、おかげ参りなどという宗教的な動きも庶民の間に再び盛んになっていた。」

臨終で名乗った渡辺篤。下「」引用。

「それから実にほぼ五十年後の大正四年、“竜馬を殺したのはわしだ”と臨終の床で遺言した一老人がこの渡辺吉太郎(のち改名し篤)だったというので謎はいよいよ救い難いものとなる。」

龍馬は終日一歩も外に出ていない?……。下「」引用。

「一方土佐側の資料によれば、竜馬は前日からカゼ気味で終日一歩も部屋の外に出てないことになっているのに、留守だったということは不審である。この件について三好氏はその後藩某の囲い女が近江屋の隣におり、十五日は二回この女のもとにいったという新資料を得た、と連絡をしてくれた。-略-」

資料一つもない?……。下「」引用。

「“こなくそ”の一言と、二つの“遺留品”については、信郎口伝にも口書にも全然ない。さらに奇怪なことは、この二品があったことを伝える書は多いが、それがいつ、どこで、誰によって発見されたものなのかを記した資料は一つもないことである。肝心な名札の方はいつ、いずことも知れず杳としてその姿を消し、代わりに鞘と下駄が忽然出現するのである。これも偶然の一致なのであろうか。-略-」

悪玉として、司馬遼太郎の小説『峠』で描かれている今井信郎。

薩摩説は映画にもなった……。下「」引用。

「そうしたなかのお古いところてば蜷川新法博の「あれも薩摩の陰謀ではないか」と洩らした一言にヒントを得たといわれる日活映画「六人の暗殺者」、同題名の新国劇がある。小説では安岡章太郎氏、船山馨氏などがこの“薩摩説”の系譜に入ろう。」

余談、中岡慎太郎説……。ともに殺されているというのに、こんな説まであるという……。

黒幕・後藤象二郎……。下「」引用。
 
「黒幕がたとえ後藤象二郎だったとしても、好んで危険率の高い同藩の者を差向けるより、復讐翌に燃える見廻組あたりになんらかの方法でアジトを密告し、彼らの手で片付けてもらった方がはるかに安全だし、得策と思われる。もちろん三好氏もその可能性を否定しているわけではない。-略-土佐下手人説はどう円周を拡げてみても入りかねると思うのである。ただ創作としては、内ゲバの極点を衝くものととして充分興味深い。」

西郷の恩を考えてか西南戦争に出陣した信郎。
討伐で参加して、寝返ろうと計画したが現地につくまでに西南戦争は終った……。

キリスト教“高度成長”……。下「」引用。

「ところで明治十一年と同十年間を比較すると、教会数は四十四が約四倍の百六十八へ、信者数も千六百十七人から約七倍の一万一千人という“高度成長”を示している。これらは自由民権運動と裏となり表になり、歩調をそろえて一般庶民、インテリ青年、旧幕士族らの間に強固な地盤を築き、反封建、反権力、反新政府活動へと展開していく。
 とはいえ信郎入信の動機は、正直いって明確にはわからない。」








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