磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XVI

2008年03月17日 | 読書日記など
『原爆前後XVI』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1972年

外国や国内に出張。そして、この時代のサラリーマンも、痛勤だったようです。



電車に乗るにも苦労したという。下「」引用。

「大波止から大橋工場までは四キロ以上もありますので、ここから長い列に並んで電車に乗るのもずいぶん苦労です。」

やはり助けることはできなかったという。下「」引用。

「幸い自分の頭の傷は軽傷で血も止まりましたので、また道を軽く走り出しました。道端には女子学徒四、五名が草むらの中にころがって抱き合い、救って下さい、と泣いているのです。通るものは、みな立ち止まって見て、可哀想だとは思いながらも、硝子の破片で負傷して出血しているこれらの学徒をどうすることも出来ず、ただ「元気を出して」と慰めるより外に手のつくしようは無かったのです。」

すべての人を救うなんて不可能だったと思います。

「ジャワで油タンクを作る」という文章がありました。下「」引用。

「昭和十七年九月、私の親友で第二船殻工場に勤務されていた松竹安雄技師がジャワに派遣されました。これはジャワの各地に油タンクを建設する準備のためでした。やがて、同技師から増援の要請が造船所に来て、黒山勝、愛川美義、岩永武雄、帆山宏志それに私の合計五名のものが選抜されてジャワに行くことに決まりました。この五名はいずれも兵役を済ましたばかりものでしたから、大東亜戦争に召集を受けたつもりで、みんな決死の覚悟で現地に向ったのでした。
 われわれが長崎を出発したのは昭和十八年三月二十八日でした。」

占領している他国に行くのと、今のサラリーマンの出張ではかなり違うかもしれませんね……。


「広島原爆の思い出」という文章では社宅に残した家族を心配……。下「」引用。

「八月六日、広島造船所では被爆直後、所長命令が出て、従業員は戸外出場を一切禁止されました。しかし、造船所にいるわれわれの耳にも、広島市内は大火災が発生しどしどし延焼中だという話が伝わってきます。市中に住んでいる私は家族の安否が気掛りでなりませんでしたので、特別の許可を得て社宅の現場に確認に外出しました。私の住いは羽衣社宅の一軒で、ここは広島市内を流れる元安川沿い、その西側にあり、市の繁華街を遠く離れた閑静な住宅地の一画にありました。もともと、この社宅は長崎から転勤してきた従業員ばかり十二、十三家族を収容するために建てられた新しい社宅でした。」


「名航に転勤して」という文章もありました。大変な痛勤だったようです。

そして、8月9日長崎へ出張、夜行電車に。下「」引用。

「こんなどさくさの最中、ある要件につき至急長崎に行き当該部長と打合せして来るように命ぜられた。私は家庭の事情をお話し、出張を八月九日に延ばして頂き、そしてその日の終列車で名古屋を出発した。当時は東海道線は敵の艦載機の襲撃のため危険なので、裏日本廻りで行った。翌日の新聞紙面には「一、八月九日午前十一時ごろ敵大型機二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。二、詳細目下調査中なるも、被害は極めて僅少なる見込」という例の軍の発表があった。-略-それに敵機来襲のため警戒警報が発令される都度、もよりのトンネルに待避するため列車は前進後進を繰り返し、そして長い時間トンネル内に停車するからであった。山陰線にはトンネルが数知れぬほどあるので、待避には好都合であったが、トンネル待避の時間の長いのと、その度数が多いので、乗客一同の手や顔は煤煙で真黒となり二目と見られぬ形相に、お互い顔見合わせて苦笑する始末であった。幸い軍から分譲して貰った乾パンを携行したので飢じい目には会わなかった。
 九州にはいって、列車が諌早駅に着いたとき、ここのプラットホームに無数の担架が、ところ狭しとばかり並べられているのを目にし、いったいこの担架は何処からなんのために運んできたものか、不思議なことと思ったが、喜々津、大草、長与、道ノ尾の各駅、どこでも同じ光景に、いよいよ、これは只事ではないと気づいた。」

退職、そしてすぐに入社をしたという。下「」引用。

「かくて、年が変わって二十一年三月十七日、依願解傭使の辞令を頂き、長年の三菱重工を辞したが、その翌日の十八日付で三菱化成工業黒崎工場に入社した。」








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