『恵子 ゴー・オン』
笹森恵子・著/汐文社1982年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「日米をむすぶ“原爆の語り部”
“原爆乙女”として渡米し、米国永住の道を選んだ恵子。不安と葛藤、そして自立への模索……。在米被爆者として、幾多の苦難と波瀾にみちたその半生を切々と綴った〈愛と平和〉の自伝的メッセージ。」
表紙の絵は、ボストン在住の画家、松本六平さんがかかれてました。
この著者も“原爆乙女”より“ヒロシマ・ガールズ”の方がいいそうです。
“原爆乙女”では原爆が生きているようで、イヤだそうです。
この方は子どもが好きなんだろうなあと思います。
看護婦(現在・看護師)さんをしておられて、新生児をみていて、励まされているように思えたそうです。それが、ゴー・オン! だそうです。
お地蔵様好きの方のようです。
被爆して、火傷がひどく誰かわからないが、住所と名前をうわごとでいっているというので、家族が発見されたという。
重傷なのに、助かったのはお地蔵様のおかげと思われている。そして、今も広島の実家に大切にお地蔵様は祭られているという。
流川教会・谷本牧師の教会の「シオン会」のメンバー。
東大分院に入院
クエーカー教徒のノーマン・カズンズがやってきて面会する。
そして、渡米することになる。
著者はカズンズの家にホームスティされたようです。
英語の勉強はクエーカーの学校。
看護婦として働き、患者さんから、「エンゼル!」と呼ばれたそうです。
二世部隊の人たちのパーティで「クイーン」に選ばれたという。
手術中にヒロシマ・ガールズの中林智子さん死亡。
カズンズは不幸があった日から食事をしていなかったが、恵子の言葉「冬が過ぎたら春がくるのね」で、外食をしたという。外食しない彼、妻も栄養に気をつけていたが、食事をとったことを喜んだという。
秋葉市長もクエーカー教の関係者のように書かれてありました。
息子さんのことをとても大切にされ、息子さんは世界一の母と書いておられます。
シゲコ!-ヒロシマから海をわたって-
もくじ
笹森恵子・著/汐文社1982年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「日米をむすぶ“原爆の語り部”
“原爆乙女”として渡米し、米国永住の道を選んだ恵子。不安と葛藤、そして自立への模索……。在米被爆者として、幾多の苦難と波瀾にみちたその半生を切々と綴った〈愛と平和〉の自伝的メッセージ。」
表紙の絵は、ボストン在住の画家、松本六平さんがかかれてました。
この著者も“原爆乙女”より“ヒロシマ・ガールズ”の方がいいそうです。
“原爆乙女”では原爆が生きているようで、イヤだそうです。
この方は子どもが好きなんだろうなあと思います。
看護婦(現在・看護師)さんをしておられて、新生児をみていて、励まされているように思えたそうです。それが、ゴー・オン! だそうです。
お地蔵様好きの方のようです。
被爆して、火傷がひどく誰かわからないが、住所と名前をうわごとでいっているというので、家族が発見されたという。
重傷なのに、助かったのはお地蔵様のおかげと思われている。そして、今も広島の実家に大切にお地蔵様は祭られているという。
流川教会・谷本牧師の教会の「シオン会」のメンバー。
東大分院に入院
クエーカー教徒のノーマン・カズンズがやってきて面会する。
そして、渡米することになる。
著者はカズンズの家にホームスティされたようです。
英語の勉強はクエーカーの学校。
看護婦として働き、患者さんから、「エンゼル!」と呼ばれたそうです。
二世部隊の人たちのパーティで「クイーン」に選ばれたという。
手術中にヒロシマ・ガールズの中林智子さん死亡。
カズンズは不幸があった日から食事をしていなかったが、恵子の言葉「冬が過ぎたら春がくるのね」で、外食をしたという。外食しない彼、妻も栄養に気をつけていたが、食事をとったことを喜んだという。
秋葉市長もクエーカー教の関係者のように書かれてありました。
息子さんのことをとても大切にされ、息子さんは世界一の母と書いておられます。
シゲコ!-ヒロシマから海をわたって-
もくじ