『八八歳レイコの軌跡-原子野・図書館・エルダーホステル』
豊後レイコ・著/ドメス出版2008年
著者は福田須磨子の姉。
--福田須磨子のことも書かれてあります……。
大正時代が明るく見えたという。下「」引用。
「-略-大正ロマン、大正デモクラシーに彩られ、どの時代よりも明るく見える。それもしっとりと、障子を透かした灯りのように見えるのだ。」
しかし、明治も大正も……。下「」引用。
「明治生まれの母の時代の忍従と違っているが、一四(大正三)年生まれの彼女の生き方は、金子みすゞの人生と同じように、女に生まれた悲しさを感じる。明治も大正も女性に関しては根っこの部分で同じだつたと思う。」
長崎原爆を知ったのは、翌日だったようだ……。下「」引用。
「八月一○日
長崎の原爆を伝える短波放送の原稿を、N氏が持ってくる。「強烈な新型爆弾が炸裂、長崎は地上から抹殺された」とあった。デマに違いない。家族はきっと防空壕で生きている、と考えながら、「長」「崎」「抹」「殺」と一字一字タイプの字を拾った。」
妹が生きていると、伯父から聞いたという。
妹・福田須磨子との再会についても書かれてあった。
CIE図書館勤務。下「」引用。
「CIE図書館は戦後の占領時代、日本の民主化の推進のために、SCAP(連合国軍最高司令官)・GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)によって、国内二三の都市に開設された図書館のことである。」
大阪ACCに再就職。
「妹・須磨子のこと」……。下「」引用。
「妹・福田須磨子は、長崎で家庭をもち、貧乏暮らしと体の不調に悩まされながらも、「地獄絵を見た私の務め」と称して、平和運動に熱心に取り組んでいた。東京で行われる原水爆禁止全国大会に出席後など、ときとぎわが家に立ち寄ったが、息子たち相手によく原爆投下の模様を語っていた。-略-」
自死をくわだてた福田須磨子。1968年秋。下「」引用。
「九月はじめに長崎で開かれた出版記念会には名士や有名作家の方々もおいでになり、盛会だった。
ところがこの席で、私は彼女の言動に異常を感じて、不安をかかえたまま帰坂したが、初秋にそれが現実となってあらわれた。出版がもとで周囲の人々と対立するようになった彼女は不眠に悩み、心を病み、ついに自死を企てたという。
すぐに長崎に駆けつけ、救急で運ばれた病院に行くとね、今では考えられないことだが、リハビリ療法も施されず、筋肉が衰えて歩行不能になっていた。そのうえに妄想に悩まされていた。彼女が退院をせがむので、主治医にお願いして自宅に連れ戻した。布団に横たわった彼女の目はうつろで、髪はそばだち、幻覚を訴え、幽鬼さながらの姿であった。須磨子は原爆の地獄絵を見たというが、私は、飢え、友を失い、孤独地獄に落ちた人間の絵を見ている、と思った。」
そして、姉である著者は大阪に福田須磨子をひきとる……。
「福田須磨子の死」1974年4月2日。
TV番組「われなお生きてあり」(ドキュメンタリー)NBC(長崎放送)。
Index
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豊後レイコ・著/ドメス出版2008年
著者は福田須磨子の姉。
--福田須磨子のことも書かれてあります……。
大正時代が明るく見えたという。下「」引用。
「-略-大正ロマン、大正デモクラシーに彩られ、どの時代よりも明るく見える。それもしっとりと、障子を透かした灯りのように見えるのだ。」
しかし、明治も大正も……。下「」引用。
「明治生まれの母の時代の忍従と違っているが、一四(大正三)年生まれの彼女の生き方は、金子みすゞの人生と同じように、女に生まれた悲しさを感じる。明治も大正も女性に関しては根っこの部分で同じだつたと思う。」
長崎原爆を知ったのは、翌日だったようだ……。下「」引用。
「八月一○日
長崎の原爆を伝える短波放送の原稿を、N氏が持ってくる。「強烈な新型爆弾が炸裂、長崎は地上から抹殺された」とあった。デマに違いない。家族はきっと防空壕で生きている、と考えながら、「長」「崎」「抹」「殺」と一字一字タイプの字を拾った。」
妹が生きていると、伯父から聞いたという。
妹・福田須磨子との再会についても書かれてあった。
CIE図書館勤務。下「」引用。
「CIE図書館は戦後の占領時代、日本の民主化の推進のために、SCAP(連合国軍最高司令官)・GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)によって、国内二三の都市に開設された図書館のことである。」
大阪ACCに再就職。
「妹・須磨子のこと」……。下「」引用。
「妹・福田須磨子は、長崎で家庭をもち、貧乏暮らしと体の不調に悩まされながらも、「地獄絵を見た私の務め」と称して、平和運動に熱心に取り組んでいた。東京で行われる原水爆禁止全国大会に出席後など、ときとぎわが家に立ち寄ったが、息子たち相手によく原爆投下の模様を語っていた。-略-」
自死をくわだてた福田須磨子。1968年秋。下「」引用。
「九月はじめに長崎で開かれた出版記念会には名士や有名作家の方々もおいでになり、盛会だった。
ところがこの席で、私は彼女の言動に異常を感じて、不安をかかえたまま帰坂したが、初秋にそれが現実となってあらわれた。出版がもとで周囲の人々と対立するようになった彼女は不眠に悩み、心を病み、ついに自死を企てたという。
すぐに長崎に駆けつけ、救急で運ばれた病院に行くとね、今では考えられないことだが、リハビリ療法も施されず、筋肉が衰えて歩行不能になっていた。そのうえに妄想に悩まされていた。彼女が退院をせがむので、主治医にお願いして自宅に連れ戻した。布団に横たわった彼女の目はうつろで、髪はそばだち、幻覚を訴え、幽鬼さながらの姿であった。須磨子は原爆の地獄絵を見たというが、私は、飢え、友を失い、孤独地獄に落ちた人間の絵を見ている、と思った。」
そして、姉である著者は大阪に福田須磨子をひきとる……。
「福田須磨子の死」1974年4月2日。
TV番組「われなお生きてあり」(ドキュメンタリー)NBC(長崎放送)。
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