磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆と広島大学 「生死の火」学術篇

2008年01月15日 | 読書日記など
『原爆と広島大学 「生死の火」学術篇』
    広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会(編・発行)s52年


『はじめに』。下「」引用。

「広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会は昭和50年、広島大学を厚生する前身諸校の原爆被災の実態を記録に留めるべく「生死の火」を編集刊行した。いまここに、広島大学(前身諸校を含む)の原爆に関する広義の学問的寄与の大要を取り纏め、「生死の火」学術篇として公にしようとする。それは被爆犠牲の上に建設された学園にいるものとして、死没者への追悼の情の一つの表われでもあるとともに、学問が人間存在の窮極的な福祉に使えるべきものである以上、人類史上決して忘れ去ることのできない原爆被災をわが大学の学問的営みの内的原点としてあらためて見据えようとするためである。」



測定班も亡くなられていたという。下「」引用。

「〔測定班〕 文理大学理学科の教官で働けるのは藤原と竹山晴夫(当時助教授)だけであった。正木教授は爆死し、ほかの教官は負傷して療養るいは静養を要する身であった。藤原と竹山が中心となって市近郊在住の学生や来広した卒業生で測定班を編成した。」

いろいろなことについて書かれてあった本です。



小頭症は原爆投下、25年前に指摘されていたものらしいです。下「」引用。

「ヒトの胎児については妊娠母体の治療のためにおきた放射線の体内被爆による胎児障害として、知能遅滞を伴う小頭症が認められたことは、1920年代にGoldstein、Murphyらによる報告など古いものがある。」


広島大学医学部は、広島県立医専だったようです。下「」引用。

「広島県立医専当時は原爆直後は校長の禁足令で全然原爆医療には接する機会がなく、安浦時代は学校再建の為に力を削られて、何もすることができなかった。広島医科大学並びに広島大学医学部の初期は本拠が呉市広町にあり、要員も少なく、機械器具の整備に追われ、直接積極的に被爆者の治療に従事することはできなかった。広島復帰後は原爆病院、ABCCなどが大いに活躍していたため、外科としてはお手伝いの程度で積極的な診療の機会は逸した。」

index

永井隆博士の主治医・故朝長正充(長崎大学医学部から、広島大学医学部附属原子放射能基礎医学研究施設を経て、同原医研教授、後に長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設内科教授となる)が、広島大学でも活躍されたようです。








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