磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XVIII

2008年03月17日 | 読書日記など
『原爆前後XVIII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

工場も人手不足で、学徒や朝鮮の人、捕虜を……。人手不足という表現ではなく、“手不足”と書かれていました……。



戦艦“武蔵”は「化けもの」といわれていたようです。下「」引用。

「遠い満州にいても、極秘に建造されたはずである武蔵のことは風の便りで知っていた。通称「化けもの」であることも。今だから言えることだが、毎年入隊して来る初年兵によって知らされていたものの、直接目のあたりに見た時は、想像以上の巨艦に驚きの目を見張ったものだった。作業は機関室め汽罐室附近の甲鉄甲板残工事と汽罐室から煙突に通じる煙路囲壁の組立工事であった。」

学徒や朝鮮の人が工場へ。下「」引用。

「学徒報国対として広島文理科大学の学生を始め、広島市内の中学校生徒が一生懸命頑張っていたが、主力は徴用工員であった。小学校を出て来たばかりの童顔の少年たちと広島県・島根県などから来た十八、九才の人たちの中に四十才、三十才の年輩者が二、三名混ざって私たちの指図通りに作業は進められていたが、図面通りに一人で作業の出来る人は少なく目が離せない。
 その後、朝鮮半島出身者が徴用されて来て、人員は増えて一組二十五名から三十名になった。
 全部の数は判らないが、私のところにも六名配属された。その中には南鮮釜山で電工夫をやっていた人や、北鮮の農村から来た日本語をよく話せるおとなしい青年も交じっていた。いずれも体格が良く腕力もあるので、おもに材料運搬をやって貰い、運搬する材料がない場合は組立作業を手伝って貰った。」

長崎の母からの便り。下「」引用。

「それよりさき、長崎の母から、近所に爆弾が落ち、その破片で軒先を破壊されたから、暇があったら帰って来て呉れ、と便りがあったので、疎開作業も交代した時だから、休暇を貰って帰郷しようか、何かしようか迷っていた。もし長崎に帰っていたら被爆死したであろう。」

占領されていた時代。下「」引用。

「後に聞いた話では、山王神社附近で酒に酔った米兵が家に乱入し乱暴を働いた上、主人を射殺したという。」

今も米兵の事件が話題になりますね。

終戦後のパンのつくり方。下「」引用。

「米の配給も不足勝ちで、その上米の代わりにトロモロコシ・大豆粉・脱脂大豆などが増え、粉食時代となる。誰が考えたのか、箱の両側に銅板を入れ、その中に水で練った粉を入れて電流を通してパンを焼くことが流行した。量を増やすため、野菜や鉄道草、よもぎ等を混入していた。」

潜水艇が日本の近海にまで来ていたという。下「」引用。

「昭和十九年夏、航空母艦天城の試運転もやはり瀬戸内海で行われた。その頃すでに容易ならざる戦局であることを、大本営発表とうらはらに、国民は肌で感じていた。それだけに、計測員として乗り込んだ私たちも、前の武蔵の頃には持たなかった悲壮感に包まれていた。この時分、敵潜水艦は長崎港近くにも常に出没するという状況で、瀬戸内海に回航するさえ、かなりの決意を要したくらいであった。」

疎開しようとした当日、長崎原爆。下「」引用。

「朝起きがけに、妻の言いますには、「西彼杵郡の高浜におる姉から自分のところに疎開してこないか、と親切に言ってきておるので、今からでも直ぐに出かけようと思う」と。
 その頃、長崎は毎日のように敵機の姿を見るようになり、十日ほど間えから造船所が爆撃されはじめましたので、こういう事態になっては、妻子がいては心残りで最後の御奉公もないから家族は疎開させようと私は思っていましたので、「高浜に行くなら自分も一緒に行こう。今日会社をに行って早退の許可を貰って帰ってくるから、それから出掛けよう」と返事して出勤したのでした。」

工場での悲惨なことは書かれてありますが、ご家族の安否は書かれていませんでした。

捕虜のことが書かれてありました。下「」引用。

「戦争で人手が不足し、捕虜も工場に来て働くようになった。
 軍命令であろう。長崎市のど真中である幸町の長崎紡績工場跡に福岡捕虜収容所第十四分所が開設されたのは昭和十八年四月のこと。出島岸壁に上陸したオランダ・オーストラヤ・イギリスの捕虜約五百人がこの収容所に入所したのは、どんよりと雲がたれこめた同月二十日の夕暮れだったと聞いている。」











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