磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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長崎原爆戦災誌第三巻  続・地域編 終戦前後編

2007年01月10日 | 読書日記など
『長崎原爆戦災誌第三巻
  続・地域編 終戦前後編』
    長崎市役所(編さん)/長崎国際文化会館s60年

二キロより外であっても、
被害を受けていたようです。



二キロより外のことを第二次焼失地区と表現されているようです。

裁判所も控訴院も全焼したようです。

消火活動も、消防士だけにまかせておけない状況であったようです。
長崎医大に8月1日たちの爆撃の被害復旧にいっていた、そこで九電の方たちも被爆されて大変だったようです。

鉄道では、浦上方向へトロッコを使っていた人たちがいたようです。

救護隊と救護班についてまとめてありました。

昭和46年11月6日、NBC長崎放送で、一時間番組のラジオ・ドキュメンタリー「原子野発臨時列車」があったそうです。

長崎医大の学生をおばあさんと呼んだくらい、性別や老人か青年か子供かの区別ができなかったという。

こんな表現がありました。下「」引用。

「みんな逃げる途中でものすごくのどか乾いたという。道路わきの水たまりや池、田の水を飲んだものは二十五人のうち十八人が死んだ。破れた水道管から飲んだものは十五人のうち三人しか死ななかった。」


原爆投下後の放射性物質。水たまりの水などでは、水道管の水より放射性物質が多かったと思います。
放射性物質を体に取り込んで、アポトーシスがはじまったから、亡くなられたように思えます。

黒砂糖を配った話なども書かれてありました。

柿の葉も薬とされたようです。下「」引用。

「負傷者は火傷が多く、薬として柿の葉っぱを乾燥させ、すり鉢ですりつぶしてふるいにかけ、この粉末にオリーブ油とか硼酸軟膏などをまぜて塗ってやったりした」と語っている。」


進駐軍が長崎に上陸してくる対策をとられていたようです。

進駐軍用の土産を売ることもすぐに始められたようです。










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