『非核未来にむけて-反核運動40年史-』
森滝市郎、他・著/績文堂1985年
アメリカの科学者たちの運動もまったく効果がなかったわけではないようです……。
世界各国の人たちが……。下「」引用。
「それにアメリカインディアンやオーストラリア原住民のウラン採掘反対運動が結びついて、非核太平洋運動は核燃料サイクルのあらゆる段階に反対する運動として、文字通りの反核運動を展開するに至っている。今や非核太平洋運動と非核ヨーロッパ運動と米国内の核凍結国民運動とは、日本の反核国民運動とともに世界の反核運動の主力を形成している。
さらにヨーロッパでもアメリカでも日本でも、核の平和利用と呼ばれていた原子力発電への反対運動が反核運動の不可欠の一半を形成してききた。-略-」
杉並区の主婦たちはわかりやすい……。下「」引用。
「たとえば、東京杉並区の主婦たちは次のような簡潔な署名簿をつくって運動を開始した。
原水爆禁止のために全国民が署名しましょう。
世界各国の政府と国民に訴えましょう。
人類の生命と幸福を守りましょう。」
ノエル・ベーカーの「希望の瞬間--一九五五年五月一○日」 下「」引用。
「このときの状況をノエル・ベーカーは「希望の瞬間--一九五五年五月一○日」と書いたのだった(ノエル・ベーカー『軍備競争」前芝・山手訳、岩波書店)。だが、自国の提案がほぼうけ入れられるやアメリカはジュネーブの四大首脳会談に、軍縮の査察方法として、相手国の上空より空中査察する案を提案した。そのため軍縮交渉は事実上挫折した。こうして、核兵器開発競争は、そのテンポをしだいに早め、依然として人類を脅かしつづけてゆくのである。」
希望で喜んでも仕方がないですね。
日本に原潜がきたのは、ベトナム戦争……。下「」引用。
「六五年二月七日には、米軍機が「北爆」を開始した。他方、日本では原潜シードラゴンの佐世保入港(六四年一一月一二日)が強行され、それに対する国民の抗議の声が大きく盛り上がりつつあった。多くの物理学者たちはすでに“原潜寄港の危険性を指摘しそれに反対する”生命を発表した(六四年一一月六日)」
米兵は脱走した……。下「」引用。
「六七年一一月にはベトナム戦争に出撃していた米空母「イントレピット」の乗組員四名が日本上陸中に脱走し、「ベ平連」の世話で密かに日本を脱出し、ソ連経由でスウェーデンに亡命した。-略-「イントレピット」の脱走事件は、ベトナム戦争におけるアメリカの道徳的敗北の予兆だったともいえよう。」
そして反戦運動が懸命におこなわれた……。下「」引用。
「長びくベトナム戦争は、アメリカ社会にさまざまな傷を負わせつつあった。一九六九年までにベトナム戦争での米兵の戦死者はすでに三万七○○○名に達しており、反戦デモに復員した痛々しい負傷兵の姿が目立ってきていた。この年の反戦運動には、このようなアメリカの傷がにじみでてきていた。八月九日にはニューヨークで“死者の行進”(ベトナムで戦死した兵士の名前を朗読してデモ行進が始まる)が行われ、一○月一五日の反戦集会(ベトナム・モラトリアム)は、心にしみわたるような教会の鐘(ベトナムでの戦死者への弔意を表わすために鳴らされた)とともに始められていた。それは、死者への弔いであるとともに、アメリカ社会が建国以来はじめて味わう“挫折感”を象徴しているかのようであった。」
「ベトナム戦争の代価」は精神的なものもあったという……。
科学者たちの造反がABM論争のときあったという……。下「」引用。
「科学者たちの造反劇はさらにつづく。一九六九年四月アーネスト・J・スターングラス教授は、“一九五○年代に行われた核実験の放射線降下物によって四○万人にのぼる胎児および幼児死亡が生じたことを示唆する”論文を発表した。プリンストン高等研究所からAECのリバモア研究所にやってきた物理学者、フリーマン・J・ダイソン博士は熱烈なABM支持者だったが、スターングラス論文に接して、自己の見解を修正した。」
エコロジストも広がっていったという……。下「」引用。
「こうした雰囲気の中で、“われわれにはたった一つの地球しかない”という合言葉のもとに、国連の第一回環境会議(七二年六月)ストックホルムで開かれた。いまや、エコロジストの運動が国際的な広がりをもって噴出してきたのである。」
しかし、イラク戦争のとき、さほどのことはなかったですね……。
もくじ
森滝市郎、他・著/績文堂1985年
アメリカの科学者たちの運動もまったく効果がなかったわけではないようです……。
世界各国の人たちが……。下「」引用。
「それにアメリカインディアンやオーストラリア原住民のウラン採掘反対運動が結びついて、非核太平洋運動は核燃料サイクルのあらゆる段階に反対する運動として、文字通りの反核運動を展開するに至っている。今や非核太平洋運動と非核ヨーロッパ運動と米国内の核凍結国民運動とは、日本の反核国民運動とともに世界の反核運動の主力を形成している。
さらにヨーロッパでもアメリカでも日本でも、核の平和利用と呼ばれていた原子力発電への反対運動が反核運動の不可欠の一半を形成してききた。-略-」
杉並区の主婦たちはわかりやすい……。下「」引用。
「たとえば、東京杉並区の主婦たちは次のような簡潔な署名簿をつくって運動を開始した。
原水爆禁止のために全国民が署名しましょう。
世界各国の政府と国民に訴えましょう。
人類の生命と幸福を守りましょう。」
ノエル・ベーカーの「希望の瞬間--一九五五年五月一○日」 下「」引用。
「このときの状況をノエル・ベーカーは「希望の瞬間--一九五五年五月一○日」と書いたのだった(ノエル・ベーカー『軍備競争」前芝・山手訳、岩波書店)。だが、自国の提案がほぼうけ入れられるやアメリカはジュネーブの四大首脳会談に、軍縮の査察方法として、相手国の上空より空中査察する案を提案した。そのため軍縮交渉は事実上挫折した。こうして、核兵器開発競争は、そのテンポをしだいに早め、依然として人類を脅かしつづけてゆくのである。」
希望で喜んでも仕方がないですね。
日本に原潜がきたのは、ベトナム戦争……。下「」引用。
「六五年二月七日には、米軍機が「北爆」を開始した。他方、日本では原潜シードラゴンの佐世保入港(六四年一一月一二日)が強行され、それに対する国民の抗議の声が大きく盛り上がりつつあった。多くの物理学者たちはすでに“原潜寄港の危険性を指摘しそれに反対する”生命を発表した(六四年一一月六日)」
米兵は脱走した……。下「」引用。
「六七年一一月にはベトナム戦争に出撃していた米空母「イントレピット」の乗組員四名が日本上陸中に脱走し、「ベ平連」の世話で密かに日本を脱出し、ソ連経由でスウェーデンに亡命した。-略-「イントレピット」の脱走事件は、ベトナム戦争におけるアメリカの道徳的敗北の予兆だったともいえよう。」
そして反戦運動が懸命におこなわれた……。下「」引用。
「長びくベトナム戦争は、アメリカ社会にさまざまな傷を負わせつつあった。一九六九年までにベトナム戦争での米兵の戦死者はすでに三万七○○○名に達しており、反戦デモに復員した痛々しい負傷兵の姿が目立ってきていた。この年の反戦運動には、このようなアメリカの傷がにじみでてきていた。八月九日にはニューヨークで“死者の行進”(ベトナムで戦死した兵士の名前を朗読してデモ行進が始まる)が行われ、一○月一五日の反戦集会(ベトナム・モラトリアム)は、心にしみわたるような教会の鐘(ベトナムでの戦死者への弔意を表わすために鳴らされた)とともに始められていた。それは、死者への弔いであるとともに、アメリカ社会が建国以来はじめて味わう“挫折感”を象徴しているかのようであった。」
「ベトナム戦争の代価」は精神的なものもあったという……。
科学者たちの造反がABM論争のときあったという……。下「」引用。
「科学者たちの造反劇はさらにつづく。一九六九年四月アーネスト・J・スターングラス教授は、“一九五○年代に行われた核実験の放射線降下物によって四○万人にのぼる胎児および幼児死亡が生じたことを示唆する”論文を発表した。プリンストン高等研究所からAECのリバモア研究所にやってきた物理学者、フリーマン・J・ダイソン博士は熱烈なABM支持者だったが、スターングラス論文に接して、自己の見解を修正した。」
エコロジストも広がっていったという……。下「」引用。
「こうした雰囲気の中で、“われわれにはたった一つの地球しかない”という合言葉のもとに、国連の第一回環境会議(七二年六月)ストックホルムで開かれた。いまや、エコロジストの運動が国際的な広がりをもって噴出してきたのである。」
しかし、イラク戦争のとき、さほどのことはなかったですね……。
もくじ