『原爆シリーズ 第一集 名のない墓標』
沢田直二・著/沢田直二1970年、1981年再版
『原爆シリーズ 第二集 一握乃灰(甲神部隊始末記)』
沢田直二・著/沢田直二1975年
『原爆シリーズ 第三集 妻の甲神部隊』
沢田直二・編/沢田直二1979年
『原爆シリーズ 第一集 名のない墓』
沢田直二・著/沢田直二1970年、1981年再版
中国新聞(70年7月24日)の記事より。下「」引用。
「原爆のツメ跡描く
元少年保護司が自費出版
長年、非行少年たちの補導に当たってきた広島市古江西町、元少年保護司沢田直二さん(72)がこのほど“原爆シリーズ”と銘打った著者「名のない墓標」を自費出版した。
新書判二百十ページで、前編「原爆の児ら」、中編「わが子」、後編「保護という名の物語」、これに「結び」をあわせて二十二話からなる。特に前編は原爆で死んでいった旧広島少年院宇品出張所(現在は廃止)に収容中の少年三十数人の悲惨な被爆状況や、終戦直後の混乱期に広島駅前にあったヤミ市など舞台にした少年犯罪のケースなど追い、原爆の深いツメ跡を浮き彫りにしている。」
戦前、戦中は「広島は景気がいい」と人が集まってきたという。下「」引用。
「「広島の繁栄も絶頂に達した、そして今や、日本の広島ではなく、世界の広島までにのしあがり、軍都として交戦国戦略家の注目を浴びることとなったのではなかったろうか。ここに広島の第一の悲劇が潜んでいたとは誰も気がつかなかったのであろうが。」
中学三年生の時に、学校を放火した松下武治。
松下は刑務所へ。成績憂慮で、所轄少年更生保護委員会で仮出所。
--戦時などといっても、このようなことがあった……。
孤児はいじめられたという……。下「」引用。
「中学生たちはことごとに児童と反ぱつしあい「孤児は野荒らしをする」とか「生意気だ」とかかれ、遂には「孤児をやったれ」と推移して行ったのである。」
『原爆シリーズ 第二集 一握乃灰(甲神部隊始末記)』
沢田直二・著/沢田直二1975年
原爆犠牲者の碑 庄原市山町葛城山のふもとにあるという。下「」引用。
「甲神部隊は一応上下待ち武徳殿に終結し、軽傷の者は即時帰郷したが、重傷者は庄原三次両市の学校に収容された。当時の事情は本文「明暗」その他に上下町の林忠之さんたちのように、一旦広島市外戸坂小学校に収容されそこから直接山内小学校に移送された者もある。
こえて58年三月地元の人たちが工費九万を拠出してこの碑を建てた。」
沢田さんだけでなく、他の人も文章をよせられていた。
--例えば、「廃墟の街に家族を求めて」森千枝子
恩給のことも書かれてありました。下「」引用。
「夫の死で当然恩給は打切りです。せめて遺族扶助料でもと思い、手続きをしましたがダメでした--と。」
戦後も問題が……。下「」引用。
「このことは同じ甲神部隊でも被害の最も大きかった神石分隊よりも、比較的軽かった甲奴分隊の方に多く、五年十年中には二十年も経ってから死亡した人もあって、その死因の認定をめぐって問題がこじれているのである。」
『原爆シリーズ 第三集 妻の甲神部隊/』
沢田直二・編/沢田直二1979年
薄い本ですが、いろいろな人が書かれています。
沢田さんは編者です。下「」引用。
「妻や母たちにとって甲神部隊とは何であったのか。私は原爆三十年に建物疎開部隊の中で最も犠牲者の多かった甲神部隊をモデルに原爆の恐ろしさと戦争責任の重大さを書くため、県北の山野に奇跡的に生きのこった旧隊員および数多くの遺族を歴訪して“一握の灰(*一握乃灰)”をまとめたが、思わぬ反響を呼び、読者から寄せられた書簡はおびただしい数に上った。
そして通じていえることは「夫を失った妻や子を亡くした母にとって、甲神部隊とは一体何であったか」ではないかと思うように-略-」
もくじ
沢田直二・著/沢田直二1970年、1981年再版
『原爆シリーズ 第二集 一握乃灰(甲神部隊始末記)』
沢田直二・著/沢田直二1975年
『原爆シリーズ 第三集 妻の甲神部隊』
沢田直二・編/沢田直二1979年
『原爆シリーズ 第一集 名のない墓』
沢田直二・著/沢田直二1970年、1981年再版
中国新聞(70年7月24日)の記事より。下「」引用。
「原爆のツメ跡描く
元少年保護司が自費出版
長年、非行少年たちの補導に当たってきた広島市古江西町、元少年保護司沢田直二さん(72)がこのほど“原爆シリーズ”と銘打った著者「名のない墓標」を自費出版した。
新書判二百十ページで、前編「原爆の児ら」、中編「わが子」、後編「保護という名の物語」、これに「結び」をあわせて二十二話からなる。特に前編は原爆で死んでいった旧広島少年院宇品出張所(現在は廃止)に収容中の少年三十数人の悲惨な被爆状況や、終戦直後の混乱期に広島駅前にあったヤミ市など舞台にした少年犯罪のケースなど追い、原爆の深いツメ跡を浮き彫りにしている。」
戦前、戦中は「広島は景気がいい」と人が集まってきたという。下「」引用。
「「広島の繁栄も絶頂に達した、そして今や、日本の広島ではなく、世界の広島までにのしあがり、軍都として交戦国戦略家の注目を浴びることとなったのではなかったろうか。ここに広島の第一の悲劇が潜んでいたとは誰も気がつかなかったのであろうが。」
中学三年生の時に、学校を放火した松下武治。
松下は刑務所へ。成績憂慮で、所轄少年更生保護委員会で仮出所。
--戦時などといっても、このようなことがあった……。
孤児はいじめられたという……。下「」引用。
「中学生たちはことごとに児童と反ぱつしあい「孤児は野荒らしをする」とか「生意気だ」とかかれ、遂には「孤児をやったれ」と推移して行ったのである。」
『原爆シリーズ 第二集 一握乃灰(甲神部隊始末記)』
沢田直二・著/沢田直二1975年
原爆犠牲者の碑 庄原市山町葛城山のふもとにあるという。下「」引用。
「甲神部隊は一応上下待ち武徳殿に終結し、軽傷の者は即時帰郷したが、重傷者は庄原三次両市の学校に収容された。当時の事情は本文「明暗」その他に上下町の林忠之さんたちのように、一旦広島市外戸坂小学校に収容されそこから直接山内小学校に移送された者もある。
こえて58年三月地元の人たちが工費九万を拠出してこの碑を建てた。」
沢田さんだけでなく、他の人も文章をよせられていた。
--例えば、「廃墟の街に家族を求めて」森千枝子
恩給のことも書かれてありました。下「」引用。
「夫の死で当然恩給は打切りです。せめて遺族扶助料でもと思い、手続きをしましたがダメでした--と。」
戦後も問題が……。下「」引用。
「このことは同じ甲神部隊でも被害の最も大きかった神石分隊よりも、比較的軽かった甲奴分隊の方に多く、五年十年中には二十年も経ってから死亡した人もあって、その死因の認定をめぐって問題がこじれているのである。」
『原爆シリーズ 第三集 妻の甲神部隊/』
沢田直二・編/沢田直二1979年
薄い本ですが、いろいろな人が書かれています。
沢田さんは編者です。下「」引用。
「妻や母たちにとって甲神部隊とは何であったのか。私は原爆三十年に建物疎開部隊の中で最も犠牲者の多かった甲神部隊をモデルに原爆の恐ろしさと戦争責任の重大さを書くため、県北の山野に奇跡的に生きのこった旧隊員および数多くの遺族を歴訪して“一握の灰(*一握乃灰)”をまとめたが、思わぬ反響を呼び、読者から寄せられた書簡はおびただしい数に上った。
そして通じていえることは「夫を失った妻や子を亡くした母にとって、甲神部隊とは一体何であったか」ではないかと思うように-略-」
もくじ