磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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シリーズ時代を創る人びと2 ヒロシマを生きのびて 被爆医師の戦後史

2008年03月27日 | 読書日記など
『シリーズ時代を創る人びと2
 ヒロシマを生きのびて 被爆医師の戦後史』
   肥田舜太郎・著/林京子・寄稿/あけび書房2004年

広島で軍医である時に被爆、波乱万丈の人生を送られたといっていいかと思います。
--「原発ジプシー」でもあったナガサキ被爆者の相談というのが印象に残りました。



帯に書かれてあります。下「」引用。

「時代を疾駆する
「核兵器廃絶!」「戦争反対!」「被爆者救援!」「住民のための医療を!」「働くものの未来を!」
熱血医師の自分史
反核運動、民主医療運動の歴史とドラマがここにある」

肥田さんでも、敗戦で自決しようと考えておられたようです。下「」引用。

「敗戦を告げる八月一五日の天皇の詔勅は、廃墟の広島をむなしく吹いて通った。それでも、私は戦いの帰趨に責任を負う現役将校の端くれ。院長が自決するといえば一緒に命を捨てるつもりで、護身用の短刀を腹の晒(さらし)に巻きこんだ。正直、切腹する気はなく、いざとなったら頭を打ちぬくため、弾丸をこめた拳銃に忍ばせていた。」

1945年10月の終りごろ、広島第一陸軍病院戸板分院の患者(被爆者)と職員の全員を、新設される国立柳井病院(伊保庄(いぼのしょう)村)へ海をわたっていく。著者は知らぬ間に厚生省技官にされていたという。

1946年2月、病院船有馬山丸で、目的地パプアニューギニアのブーゲンビル島沖に着く。
この病院船にのるはめになったのは、占領軍司令部からの出頭命令があったからという。
先の新設の国立病院をつくることで問題があったようです……。
--しばらく姿を消した方がいいということで病院船に……。

占領軍からの呼び出し。下「」引用。

「二月末、有馬山丸は東京湾口の浦賀港に入港した。船長の話では、宇品で患者を下ろす予定だが、無線で送った報告に、総司令部の捕虜送還業務の担当者から、「病院船の医療責任者を浦賀で下船させ、指定の場所に出頭させよ」との連絡があったという。横須賀はアメリカ海軍の専用港で、東京にも外洋にも近くて、一万トンの有馬山丸が入港できる港は浦賀しかない、というのが船長の説明だった。」

収容者の死亡率が高いという若い米軍将校。
その理由は、一人でも多くの人に故国の土を踏ませてやりたかったという著者。

1946年、食うための労働運動が盛んであったという。
--著者も共産党入党。下「」引用。

「座につくと、「なぜ共産党に」と矢継ぎ早に質問され、広島で被爆後、柳井国立病院の医者になり、労働組合運動に参加して活動中、原爆被爆者の面倒を見過ぎてマッカーサー司令部ににらまれ、国立病院をパージされた。占領権力と闘うには共産党に入るしかないと思い、一九四二年に入党したと、かいつまんでは戦後の経歴を話した。」


西荻窪診療所、1950年4月25日から活動。

そして埼玉へ。
--行田診療所の治療代が安い、医師会の一般診療単価よりはるかに安かったという。
夜中まで往診することが知れわたって、毎晩一回は起こされたという。


被爆者の医学的傷害の調査。下「」引用。

「『民医連の四○年』(一九五三~九三年)の九六九ページに「肥田理事ら、国連の要請を受け被爆者の医学的傷害のリポートの作成を開始」と記載され、これが全日本民医連の仕事としておこなわれたことを示している。」

原発ジプシー」でもあったナガサキ被爆者の相談をうける著者。下「」引用。

M・K、14歳の時、長崎市大波止(おおはと)で被爆。「本人は俗に「原発ジプシー」と呼ばれ、原発に事故が起こった際、呼び出されて最も危険な場所の作業にあたる三次請けの労働者だった。私もそんな仕事と労働者が常時、用意されているとは全く知らなかったが、実際の仕事を聞いて身の毛のよだつ思いがした。」

世界各地へ。
--フランスでのテレビ討論会 1985年9月3日が印象に残りました。

--スミザーマンも診られたという。
それにしてもアメリカ軍はひどい。下「」引用。

「彼は自分の難治の疾病が原爆実験によるものと確信し、退役軍人管理局に補償を要求した。当局は、一回目は「スミザーマンという兵士は海軍にはいなかった」としてし却下。二回目は兵籍を認めたが、「駆逐艦サムナーは実験海域にいなかった」として却下。三回目は「艦が実験海域にいたことは認めたが、全く被曝していない」として却下。四回目は「乗員二六二名中二六名のフィルムバッジがガンマ線三ラドの被曝しか示していなかった」「患者のリンパ浮腫は被曝と関係ない」と却下した。スミザーマンはこれを不服として裁判闘争に踏み切り、目下控訴中である。」

そして、スミザーマンは大腸癌で死亡。
原爆復員軍人救済法による報償金支給を決定したという。

そして、こんなことが語られたという。下「」引用。

協同病院で終始、診療をともにしたランバート医師は、『NAAVニュース』に寄稿した報告の中で次のように述べている。
「ジョンはヒダシュンタロウ先生(ヒロシマの被爆者)の埼玉県協同病院に入院した。ジョンはヒダ医師とスタッフの医師たちにより一○日間、一級の医学検査と対症治療を受けたばかりでなく、人間としてこれ以上は考えられないほどの優しさと尊敬をもって遇された。病院の職員は男性も女性も優しく親切で、みな人格者であった。私自身もこの病院に滞在し、いろいろな影響を受けた。日本の中でもこの病院はユニークな機構を持っている。それは地域の住民が医療生活協同組合をつくって病院を建設し、住民の手で運営されている。職員は医師も看護婦も事務職も管理職もすべてが患者の生命を最優先して働いている。私はこのような素晴らしい病院で働く幸せを持たなかったことを残念に思っている」」



もちろん、平和運動などについても書かれてありました。

あまりに多いので書ききれません。









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