PHP・こころのノンフィクション27
『折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち』
那須正幹・作/高田三郎・絵/
PHP研究所1984年、1992年8刷
厚生省児童福祉審議会推薦
サンケイ児童出版文化賞推薦
全国学校図書館協議会選定
日本図書館協会選定
今でも平和は純粋なものと考えている人がいる。
何度も言わないといけない、安全な水が必要のように、
まともな人間なら、平和は当たり前のことだ。
この本の文学的に優れているところも、
そんなウソ臭い、純粋ではなく、
人間として、いろいろな問題はあっても、
乗り越えていった人たちの物語でもある。
純粋といいながら、オウム真理教に入っていった
Mらのような人たちが多く存在している社会でもある。
そんな純粋は、人(他者)の心を心としてもいない。
この物語はあの“原爆の子の像”の佐々木禎子を
モデルとしている。
佐々木禎子のクラスメートたちは、
禎子を支えるために、「団結の会」をつくり、
しっかりとお見舞いに行った。
そして禎子が原爆病で亡くなった時、
佐々木禎子の冥福を祈りたかったのだ。
彼らが作ったビラが掲載されていた。下「」引用。
「原爆の子の像を作りましょう
今日、日本中の校長先生があつまられることを知り、私たちはおねがいを発表させていただきたいと思います。
私たちの仲よしであった佐々木禎子さんが十月二十五日、原子病で死んでしまわれたのです。私たちとは小さいときからの友であり、ともに学びともに遊んで楽しくすごしてきたのに、その罪もない禎子さんが今年の一月、とつぜん病気して、九か月のながい間かかってなくなられました。
私たちは禎子さんが原爆のことをいって死んでいかられた心が、悲しくてなりません。でももうしかたがありませんから、せめて原爆の子の像を作って、おなじようになくなられた子らの霊をまつってあげたいのです。
それで私たちの計画を全国の中学校のお友だちにうったえて、賛成してもらってください。
どうかこのことを校長先生から中学生のお人におつたえください。とくにおねがいしにまいりました。
広島市立幟町中学一年生
故佐々木禎子級友一同」
その運動は「団結の会」から離れていく。
上級生たちが、「ぎずく会」を作ったからである。
しかし、運動にはシンボルを必要とした。
そのシンボルが佐々木禎子だった。
そうなれば、「きずく会」のメンバーは、
佐々木禎子を知らなかった。
そこで、「団結の会」から生まれた、
「こけしの会」のメンバーの力を必要とした。
佐々木家の家の跡は広島市民球場になっているようだ。
「きずく会」と「こけしの会」の違いを
佐々木禎子の知人が書いている。下「」。
「僕は、“平和をきずく会”の一員であるという誇りよりは、“こけしの会”の会員であることの誇りのほうが強かった。それはなにも、運動のキッカケを作った本尊は自分たちだということをがんこにまもりたかったからではない。一生徒にとっては、何の行動もよびおこさぬような大きすぎる団体よりも、小さくても何か考え、つねに行動している集いのほうが魅力を感じたのである。」
佐々木禎子の家庭は映画のモデル料をもらったなどと
噂をされたというが、一銭ももらっていなかったという。
映画の後に「広島折り鶴の会」が結成されたという。
「折鶴会」は、外国からの訪問者に、折鶴のレイを贈り、
歓迎したという。
そして、原爆ドーム保存運動も、彼らの手から始まったという。同。
「昭和三十五(一九六○)年、日米安全保障条約改訂をめぐって“安保反対”の国民運動がうずまくなかを、“折鶴会”は、あらたな運動「原爆ドーム保存運動」を開始する。
四月五日に白血病で死亡した女子高校生、楮山(かじやま)ひろ子(十六歳)の日記の一節にあった、
「ヒロシマをくり返さないために原爆ドームを後世に伝えて。」
ということばに胸をうたれた会員たちのなかから、原爆ドーム保存のための募金と署名運動がはじまる。
その当時、十五年の歳月を経た原爆ドームの老朽化が問題視され、市は、“とりこわしもやむなし”の方向へと動いていた。
さいわい昭和三十九(一九六四)年、広島市は原爆ドーム保存を決定し、保修工事がおこなわれる。
その間、さまざまな団体から、ドーム保存のための寄付や署名があつまった。そのすべてが“折鶴会”によってあつめられたものではないが、この会が起爆薬の役めをはたしたことはうたがいない。」
折鶴会は批判を受けたという。
政治的なことを嫌う折鶴会であるが、
それはいいことだったと私は思う。
政治的になった会や、組織は、
平和というよりも、組織運動になって
しまったと思う。
平和とはイデオロギー論争ではない。
当たり前のことなのだと、私は伝えたい。
大量虐殺は異常なことだとも理解してもらいたい。
それなのに、いまだに、
政治の道具として使う輩がいるのは、
腹立たしい。
もくじ
『折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち』
那須正幹・作/高田三郎・絵/
PHP研究所1984年、1992年8刷
厚生省児童福祉審議会推薦
サンケイ児童出版文化賞推薦
全国学校図書館協議会選定
日本図書館協会選定
今でも平和は純粋なものと考えている人がいる。
何度も言わないといけない、安全な水が必要のように、
まともな人間なら、平和は当たり前のことだ。
この本の文学的に優れているところも、
そんなウソ臭い、純粋ではなく、
人間として、いろいろな問題はあっても、
乗り越えていった人たちの物語でもある。
純粋といいながら、オウム真理教に入っていった
Mらのような人たちが多く存在している社会でもある。
そんな純粋は、人(他者)の心を心としてもいない。
この物語はあの“原爆の子の像”の佐々木禎子を
モデルとしている。
佐々木禎子のクラスメートたちは、
禎子を支えるために、「団結の会」をつくり、
しっかりとお見舞いに行った。
そして禎子が原爆病で亡くなった時、
佐々木禎子の冥福を祈りたかったのだ。
彼らが作ったビラが掲載されていた。下「」引用。
「原爆の子の像を作りましょう
今日、日本中の校長先生があつまられることを知り、私たちはおねがいを発表させていただきたいと思います。
私たちの仲よしであった佐々木禎子さんが十月二十五日、原子病で死んでしまわれたのです。私たちとは小さいときからの友であり、ともに学びともに遊んで楽しくすごしてきたのに、その罪もない禎子さんが今年の一月、とつぜん病気して、九か月のながい間かかってなくなられました。
私たちは禎子さんが原爆のことをいって死んでいかられた心が、悲しくてなりません。でももうしかたがありませんから、せめて原爆の子の像を作って、おなじようになくなられた子らの霊をまつってあげたいのです。
それで私たちの計画を全国の中学校のお友だちにうったえて、賛成してもらってください。
どうかこのことを校長先生から中学生のお人におつたえください。とくにおねがいしにまいりました。
広島市立幟町中学一年生
故佐々木禎子級友一同」
その運動は「団結の会」から離れていく。
上級生たちが、「ぎずく会」を作ったからである。
しかし、運動にはシンボルを必要とした。
そのシンボルが佐々木禎子だった。
そうなれば、「きずく会」のメンバーは、
佐々木禎子を知らなかった。
そこで、「団結の会」から生まれた、
「こけしの会」のメンバーの力を必要とした。
佐々木家の家の跡は広島市民球場になっているようだ。
「きずく会」と「こけしの会」の違いを
佐々木禎子の知人が書いている。下「」。
「僕は、“平和をきずく会”の一員であるという誇りよりは、“こけしの会”の会員であることの誇りのほうが強かった。それはなにも、運動のキッカケを作った本尊は自分たちだということをがんこにまもりたかったからではない。一生徒にとっては、何の行動もよびおこさぬような大きすぎる団体よりも、小さくても何か考え、つねに行動している集いのほうが魅力を感じたのである。」
佐々木禎子の家庭は映画のモデル料をもらったなどと
噂をされたというが、一銭ももらっていなかったという。
映画の後に「広島折り鶴の会」が結成されたという。
「折鶴会」は、外国からの訪問者に、折鶴のレイを贈り、
歓迎したという。
そして、原爆ドーム保存運動も、彼らの手から始まったという。同。
「昭和三十五(一九六○)年、日米安全保障条約改訂をめぐって“安保反対”の国民運動がうずまくなかを、“折鶴会”は、あらたな運動「原爆ドーム保存運動」を開始する。
四月五日に白血病で死亡した女子高校生、楮山(かじやま)ひろ子(十六歳)の日記の一節にあった、
「ヒロシマをくり返さないために原爆ドームを後世に伝えて。」
ということばに胸をうたれた会員たちのなかから、原爆ドーム保存のための募金と署名運動がはじまる。
その当時、十五年の歳月を経た原爆ドームの老朽化が問題視され、市は、“とりこわしもやむなし”の方向へと動いていた。
さいわい昭和三十九(一九六四)年、広島市は原爆ドーム保存を決定し、保修工事がおこなわれる。
その間、さまざまな団体から、ドーム保存のための寄付や署名があつまった。そのすべてが“折鶴会”によってあつめられたものではないが、この会が起爆薬の役めをはたしたことはうたがいない。」
折鶴会は批判を受けたという。
政治的なことを嫌う折鶴会であるが、
それはいいことだったと私は思う。
政治的になった会や、組織は、
平和というよりも、組織運動になって
しまったと思う。
平和とはイデオロギー論争ではない。
当たり前のことなのだと、私は伝えたい。
大量虐殺は異常なことだとも理解してもらいたい。
それなのに、いまだに、
政治の道具として使う輩がいるのは、
腹立たしい。
もくじ