磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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私の被爆者運動

2008年12月27日 | 読書日記など
『私の被爆者運動』
   斉藤義雄・著/新日本出版社1986年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「著者は、十七歳のとき広島で被爆し、以後、原爆症で入通院加療しながら被爆者・平和・原水禁運動に従事する。-略-」



東京から軍属として広島へ。下「」引用。

「一九四五年(昭和二十)七月末、私ははじめて広島駅に降りたった。陸軍兵器行政本部広島分室付の軍属として、数人の部員とともに東京の本部から派遣されてきたのである。
「広島には爆撃はないとそうだよ」。東京を発つ前、だれからともなくそんな話を聞かされてきたのだが、その広島でも、その頃になってようやく防空壕掘りや密集地で民家の取壊し作業がすすめられていた。」

レッド・パージの時代……。下「」引用。

「一九四九年(昭和二十四)にはいると、アメリカ占領軍と吉田内閣は、共産党と民主団体への弾圧をたくらみ、労働者と労働組合にたいしては、賃金や労働条件の切り下げとともに、大量首切りの行政整理や企業整備を強行してきた。官公労働者二十六万人、民間労働者三十万人が首切りの対象とされ、そのなかで共産党員と戦闘的な労働者の追放がたくらまれた。いわゆる「レッドパージ」である。職場は騒然としていた。私は労働組合の分会福井委員長として、連日のように盛岡市内をデモ行進したり、首切り反対、内閣打倒の共同闘争を訴えて市内の各職場をまわって歩いた。」

そして、卑劣な脅し……。下「」引用。

「しかし当局が馘にした理由は、それだけではない。通告をうける数日前、私は助役から呼ばれてこういわれた。「君は共産党員でもあるし、組合もやっている。だから、馘を覚悟してもらわなければならないが、もし共産党をやめる、というなら親父さんは残してやる」。
 何という卑劣なやり方だろう。」

とても、民主主義とは思えない。
アメリカン・ファシズムと連動したのが日本のレッドパージだろう……。
しかし、日本のもつ陰険さが、際立つ……。

そして、父も解雇……。下「」引用。

「そして翌年、父もついに解雇された。四十年近くも国鉄一筋に働きつづけ、成績優秀の表彰を何度ももらい、永年勤続による功績賞も受けている通信分区長の父は、このとき五十三歳であった。私の活動を支持していたわけではなく、むしろ反対すらしていた父であった。父が解雇させれたことにより、私の一家は長年住みなれた鉄道官舎を追われるようにして引越した。とにかくすぐ住めるところならばと、あわただしく見つけた仮の住居は、滝沢村の農家の小屋であった。板で仕切られてはいるものの、隣りは馬小屋であり、夜には天井から星がのぞくというひどいところだったれ。ここの一間に、八人家族が約二年間暮らした。」

原爆症で一時は死ぬことを覚悟しろと主治医に言われたそうである……。

田中角栄のことが書かれてあった。下「」引用。

「七日には代表が田中角栄自民党総裁に面会し、「私も友人を広島で失った。考えてみましょう」の表明を得た。また自民党被爆者対策小委員会と全国代表五十数名との懇談会も持った。-略-」

『福祉』にすりかえられたという……。下「」引用。

「基本懇が国の戦争責任に関する『政治論』をさけるのは、この戦争への反省を欠くものと言わざるを得ない。そのため基本懇は、一度は認めた『戦争被害』の事実を、結局は『福祉』の問題にすりかえてしまうのである。被爆者対策の対象があくまでも、原爆にうたれて苦しんでいる被爆者であるとするならば、基本懇は、どのような理念と内容の対策であれば、被爆者が被爆者としての苦しみから解放され得るかをひたすら追究すべきである。そして、そのために必要であれば、原爆批判と国の戦争責任の問題も回避すべきではなかったのである。-略-」

福祉も大切なことである!

そして、福祉も議員たちに恵んでもらうことではない。

そもそも日本国憲法を守らない、議員たちは、議員である資格もないのではないか?








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