磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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三田文学 3月号(59巻3号)

2008年10月08日 | 読書日記など
『三田文学 3月号(59巻3号)』
   三田文学会編集部・編/遠藤周作・編集人/三田文学会1972年

この雑誌が原爆小文庫に置いてあるのは、「長崎で」片山昌造・著があるからだと思います。



原爆が爆発した時の表現……。下「」引用。
「八月九日の昼。外にぴかっと大きな光と、トンネルの中に急に汽車が入ったときのような、からだ全体がものすごい音の名かに入ったみたいで、市役所の鉄筋の建物が一瞬ゆれ、みんな総立ちに立ち上がったの。原爆だったのよ。」

永井隆の指導の下で働いていた医学生のことが書かれてありました。下「」引用。

「医学生のおとうとの同級生の人で背の高い人。この人のことわたしすごく好きだったけれど、むこうでは感じなかったのじゃないかと思っているの。医学生の弟と一しょに永井先生の救護班で働いてあとで亡くなったけれど……」

小説だろうから、事実かどうかはわからない。
--しかし、こんなことがあったやもしれない……。
いや、あってもおかしくない。

原爆病院には行きたくないという……。下「」引用。

「原爆症は特効薬はないそうよ。医者の研究のためのモルモットになるか、医者を儲けさせるだけのもの。あたし絶対に原爆病院に行かないわ」
 ユエは笑いながら利助にいうことがある。」

長崎でしか……。下「」引用。

「るいは長崎でしか放射能の不安や苦しみに耐えて行けるところがないとわかったのだろうといいたかったが口にちしなかった。放射能症であるるいの苦しみを他の場所では受け付けてもらえず、るいはいよいよ孤立し、原爆症の自分をみじめなものにしたのではないか、長崎には仲間がいる。仲間を極度に嫌悪している反面、仲間の感覚の中にはいると自分だけではないという感じがるいを落ちつかせるのだろう。」

こんなことを書く小説は多い。
--しかし、そうなのだろうか?

被爆者は全国各地に住んでおられて、しっかりと根をおろされている人たちもいる。


目 次

外国に出ている人たちもおられ、他国の国籍で生きている人もいる。

目 次

被爆二世の新聞記事を読んだという。下「」引用。

「日によって手にすることも忘れる新聞である。何気なくあけたページに利助の眼は吸い込まれるようにそこに喰い入った。
 被爆二世のM君、原爆症状で死ぬ。
 中学三年。十五歳。原爆症に多い悪性りんぱ肉腫のため、三月末から入院重体だった。相当医師や学友、先生たちがカンパや献血をつづけた。-略-」

明るくふるまうだけが愛情なのだろうか? 下「」引用。

「ユエはM君の記事ももう読んでいるのではあるまいか。その記事を読んだかも知れない利助の心をいたわるためにユエは明るく演技しているのではないだろうか。
 利助は涙を押さえようとしても押えきれなかった。-略-」

これは、この小説家の愛情と思えるものなのだろう……。

世の中には、もっとちがったものもある……。

体験記録、手記などには、いろいろ書かれてある……。

一時しのぎの気持ちよりも、もっと熱いものが流れている家族もおられると僕には思える……。

この作者は『脱走者たち』という作品も書いています。








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