『炎の記憶-安芸門徒の原爆体験-第一集、第二集』
安芸教区広陵東組,安芸教区広陵東組仏教
婦人会連盟(編著)/安芸教区広陵東組/1983年、1986年
この本も原爆小文庫でお借りしました。合本になっています。
--第一集は以前、紹介しましたので、省略します。
炎の記憶-安芸門徒の原爆体験-
「はじめに」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-昭和五十七年三月六日に安芸門徒総結集大会が開かれ、その時の大会宣言で、平和問題、特に核兵器廃絶運動への取組みが決議され、同じ日、広島市平和記念公園において、西本願寺大谷光真ご門主が「平和を願う言葉」を宣べられました。それをうけて、核兵器廃絶を願う署名運動が展開され、安芸門徒のみならず、全国三十万の念仏者の熱い思いが国連に届けられました。-略-」
--全員婦人会の人の体験である……。
念仏者……。下「」引用。
「「ドーン」と云う音は聞かんのですよ。はあ、これは焼夷弾でやられて、地の底に落ちた、思うて「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ」云うて、手を合わせて、私しゃ一人じゃから、死ぬ覚悟で「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ」と称えとったんですが、何事もないので、表じゃと思う方向へ這うて出て行ったんですよ。そのうちに、スーッと、夕暮れみたいに、暗いのが薄明かりになって、ひょっと見たらね。裏のおばさんが、髪はバランと下がっている。-略-」
原爆ドームの前……。下「」引用。
「翌日、長女がまず次女を探しに行ったんです。そして八日から二人が一緒に探し歩いたんです。その折に、原爆ドームの前には、三才から四、五才位の子どもが、みんな黒こげになって転がっているんですよ。本当に涙を流しながら歩いたんです。」
戦時保育園。下「」引用。
「当時翼賛会より出ておられた市会議員田曽忠一氏が、父の信者だったのでお世話下さり、土地・建物を市へ貸与して、公立南観音保育園を設置しました。当時はその時の施策として、幼保共に戦時保育園一色にぬりかえられていました。私も建物と共に主任保母として市へ引きとられ、小野孝子という十九才の保母さんと二人で昭和十九年八月一日開園いたしました。-略-」
「あとがき」に書かれてあります。下「」引用。
「「原爆に遭遇し、苦しみの中に生きながら口を閉ざしていたのでは、また若い人たちに同じ恐怖を抱かせてしまいます。戦争の恐ろしさやむなしさを語り残していきましょう」と、仏教婦人会の集まりで何度もお願いしました。ようやく語り始めると、当時のいろいろなことが思い浮んできて、すぐに涙声になるのです。テープに録音している聞き役のものも、声を殺して泣きました。
この本を読まれた後も、そのまま放ってしまわれるのではなく、仏壇の引き出しに入れていただいて、あの日の悲劇を伝える語り部もなくなった後、五十年、百年の後までも、原爆で亡くなられた人々のことや、またその中で生き抜き、生かされてきたもののことも含め、安芸門徒の歴史として読みつがれていくことを願うものであります。
尚、体験談の文章化につき、広陵東組の陵友会、青陵会々員のご尽力をいただきました。ここに深く謝意を表します。」
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安芸教区広陵東組,安芸教区広陵東組仏教
婦人会連盟(編著)/安芸教区広陵東組/1983年、1986年
この本も原爆小文庫でお借りしました。合本になっています。
--第一集は以前、紹介しましたので、省略します。
炎の記憶-安芸門徒の原爆体験-
「はじめに」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-昭和五十七年三月六日に安芸門徒総結集大会が開かれ、その時の大会宣言で、平和問題、特に核兵器廃絶運動への取組みが決議され、同じ日、広島市平和記念公園において、西本願寺大谷光真ご門主が「平和を願う言葉」を宣べられました。それをうけて、核兵器廃絶を願う署名運動が展開され、安芸門徒のみならず、全国三十万の念仏者の熱い思いが国連に届けられました。-略-」
--全員婦人会の人の体験である……。
念仏者……。下「」引用。
「「ドーン」と云う音は聞かんのですよ。はあ、これは焼夷弾でやられて、地の底に落ちた、思うて「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ」云うて、手を合わせて、私しゃ一人じゃから、死ぬ覚悟で「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ」と称えとったんですが、何事もないので、表じゃと思う方向へ這うて出て行ったんですよ。そのうちに、スーッと、夕暮れみたいに、暗いのが薄明かりになって、ひょっと見たらね。裏のおばさんが、髪はバランと下がっている。-略-」
原爆ドームの前……。下「」引用。
「翌日、長女がまず次女を探しに行ったんです。そして八日から二人が一緒に探し歩いたんです。その折に、原爆ドームの前には、三才から四、五才位の子どもが、みんな黒こげになって転がっているんですよ。本当に涙を流しながら歩いたんです。」
戦時保育園。下「」引用。
「当時翼賛会より出ておられた市会議員田曽忠一氏が、父の信者だったのでお世話下さり、土地・建物を市へ貸与して、公立南観音保育園を設置しました。当時はその時の施策として、幼保共に戦時保育園一色にぬりかえられていました。私も建物と共に主任保母として市へ引きとられ、小野孝子という十九才の保母さんと二人で昭和十九年八月一日開園いたしました。-略-」
「あとがき」に書かれてあります。下「」引用。
「「原爆に遭遇し、苦しみの中に生きながら口を閉ざしていたのでは、また若い人たちに同じ恐怖を抱かせてしまいます。戦争の恐ろしさやむなしさを語り残していきましょう」と、仏教婦人会の集まりで何度もお願いしました。ようやく語り始めると、当時のいろいろなことが思い浮んできて、すぐに涙声になるのです。テープに録音している聞き役のものも、声を殺して泣きました。
この本を読まれた後も、そのまま放ってしまわれるのではなく、仏壇の引き出しに入れていただいて、あの日の悲劇を伝える語り部もなくなった後、五十年、百年の後までも、原爆で亡くなられた人々のことや、またその中で生き抜き、生かされてきたもののことも含め、安芸門徒の歴史として読みつがれていくことを願うものであります。
尚、体験談の文章化につき、広陵東組の陵友会、青陵会々員のご尽力をいただきました。ここに深く謝意を表します。」
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