磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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井伏鱒二論全集成

2008年05月08日 | 読書日記など
『井伏鱒二論全集成』
  松本鶴雄・著/沖積舎2004年

井伏鱒二論というのも、大きな歴史の流れ、そして社会システムも忘れず考察していただきたいとボクは思う。つまり、いつものことを頭のすみに置いて考えてもらいたい。そうしたら、大田洋子の方が数段、価値ある作品を残していると思えるのではないかと、ボクは思う……。いつものことと闘った大田洋子と、いつものことを肯定し、あぐらをかいていた人物、この差は非常に大きい……。




図書館の人の説明。下「」引用。

『大正・昭和に巨大な足跡を残した井伏鱒二。全体像を主にした「井伏鱒二論」、「井伏鱒二」の二著を収め、増補篇と拾遺篇の新稿を加えた全集成決定版。』

--「黒い雨」。下「」引用。

「昭和四十年の一月号より「新潮」に連載された『黒い雨』(最初は『姪の結婚』という標題で、同年八月号より改題された)は形式、内容ともに『武州鉢形城』の延長上にある作品である。」

永井龍男の評はおもしろい……。下「」引用。

「ところで、『かきつばた』に触れ、かつて永井龍男が次のように述べていた。

 広島爆撃当日、同県内の福山市に疎開してゐた作者の見聞が、「かきつばた」の一篇をなしてゐるが、広島市から三十里離れた福山市の位置といふものは、この作者と現実の距離を、さながら暗示してゐるかに私には思はれる。
 三十里離れて、現実を眺める態度の中に、作者のゆるがぬ信条や生き方が見えるやうな気がするのだ(創元社『井伏鱒二選書』五巻「解説」)」

井伏鱒二、原爆作品を語る。下「」引用。

「井伏 太田(*ママ 正しくは大田)洋子の小説を読んで……。彼女とは一度会っただけですが、原爆を書くならもう少しちゃんとしなければいかんと思ったのです。原民喜君のはよかったですね。大江健三郎のも「ヒロシマ・ノート」読んで感心したのですが、広島の人は悪くいうんですよ。どういうわけだといったら、理屈が多いという。原爆にあっている人は理屈はいらない。あれは真面目ないい作品だと思うんです。ずいぶん参考になったです。人によってみなちがうでしょう。僕はそう深刻なものを出せないな。僕が原爆を書くと原爆が駄目なんだ。
河盛 そんなことはありません。僕は「黒い雨」は日本で初の本当の原爆小説だと思っています。」

高級落語と落語をバカにする批評もあるが、井伏鱒二評としては適切だと思う……。下「」引用。

「寺田はそこで鴎外の作物を高級落語と評した自然主義作家のひそみにならって、「井伏鱒二の作品も又一種の高級落語であらう。人間の生活を、なんからの自分の心懐に調和するやうに写しとり、それを、しひてひとつの微笑をさそふやうな言葉の綾を用ひて、追求と批判をさけつつ技巧的な話術によつて語らうとしてる点が、さう言えるのだ」と言い切る。」

それに比べて大田洋子の作品はまったく違いますね。

もちろん、井伏鱒二も語っているように、原爆を伝えているのは大田洋子ですし、世の中を描いているのも大田洋子ですね……。

井伏鱒二は、昔の人たちがいう高尚な文学ですね。別の言い方をすれば、趣味的な文学ですね……。もっと言いたいのですが、止めておきます……。

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映画はよかったという評。下「」引用。

「映画になつた『黒い雨』を観て、その出来ばえに感心した。もともと原作には全体の細部を統一し、一本化するような強いストーリイ性はないし、それに代わる何らの枠組みもない。」

『黒い雨』がドキュメントだったそうです。下「」引用。

「果たして『黒い雨』はドキュメントであろうか。作者は「自選全集」第六巻の『黒い雨』「覚え書」で、「この作品は小説でなくてドキュメントである」と明言している。」

読者にとってはややこしいという。下「」引用。

「したがって、執筆以来数十年経た今になって、作者が「この作品は小説でなくてドキュメントである」と言う方が、読者にとっては面妖で、事態をややっこしいものにしていると言えよう。」


「8・『黒い雨』は盗作か? --フィクションとドキュメントについて再論」というタイトルがありました。

フィクションからはじまるドキュメントだそうです!? 下「」引用。

「しかし、『黒い雨』冒頭は先ず次のようなフィクションから始っている。」









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