磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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大久保利通 幕末維新の個性3

2010年01月28日 | 読書日記など
『大久保利通 幕末維新の個性3』
   笠原英彦・著/吉川弘文館2005年

一般には、専制政治家、官僚政治家……。都下「」引用。

「大久保利通はよく専制政治家であるとか、官僚政治家であると評される。そして一般にクールな人物との印象をもたれているようである。」



それを、一面的と批判する著者……。下「」引用。

「そうした見方がまったく誤っているわけではないが、いささか表面的な捉え方になっているのではなかろうか。藩士意識を早く払拭して朝臣となり、薩摩藩とも一定の距離を置くことができたのであるから、蓋(けだ)しかかる印象がもたれるのももっともである。ここが西郷隆盛と対照的なところである。西郷は藩意識を捨て去ることができず、島津久光の新政批判をもろにかぶった。郷里への思いをたちきれず、西郷は悶々とした感情に苦しむ。これに対して大久保はさっぱりと藩意識を捨て、みごとに新政府の礎になったかにみえる。」

西南戦争も薩摩藩の人だけが集まったわけでもないだろうに……。

そして、大久保の官僚政治は日本を焦土にかえてしまう原因であった……。礎は、戦後つくりかえられようとしたのではないのか? 明治百年といっても、戦争によって、ことごとく破壊されたのではないか? しかし、このような政治家を正当化して、デモクラシーを避け、腐敗政治を続け、根本的には何も変わっていなかった……。西郷隆盛が藩意識だけとはボクには思えないが……。大久保は財産を残さずとも、癒着体制をつくったデモクラシーではない政治を推進したのではないか……。

生まれ……。下「」引用。

「大久保利通は天保元年(一八三○)八月一日、薩摩国は甲突(こうつき)川の西方に高麗町に生まれ、その後ほどなく西郷隆盛の生地として知られる下加治屋(しもかじや)町に移り住んだ。大久保が後年「甲東」を号した所以である。-略-」

薩摩藩の負債……。下「」引用。

「薩摩藩は、享保内検のころには八六万石を上回る大藩であったが、江戸から遠く参勤交代に多額の経費を要し、幕府の命じる土木事業の負担なども手伝って、長く財政難に苦しめられてきた。文政年間ともなると、負債は五○○万両にものぼった。藩主島津斉興(なりあき)は調所書左衛門(広郷)を家老に抜擢して専ら財政の建て直しを進めた。調所は財政運営に辣腕をふるって巨額の負債を償還し、余剰金すら生み出すほどの成果をあげた。
 しかし陰では多くの弊害を生じ、結果として藩政の混乱と領民の反発を招き、しだいに藩内には反対勢力が形成されていった。藩内の富裕者に献金の見返りとして士籍を与えるといった安易な措置は、藩士内部に無用の軋轢を生み出した。また勧農の名の下に断行された苛烈なまでの誅求(ちょうきゅう)により、農民の間からは激しい怨嗟の声があがった。なかでも砂糖専売法を施行して奄美島民に過重な負担を強い、しかもその収益をめぐり収賄の疑いを招いた藩政へ信頼を著しく傷つけた(原口虎雄『幕末の薩摩』)。」

自宅軟禁……。下「」引用。

「これにより、利通の復帰は早まった。利通は自宅軟禁状態にあってもなお、西郷と交流して藩の改革をめざし、有馬一郎の下で精神の錬磨につとめていたとされる。お家騒動の一方の当事者である斉彬の立場に配慮して、利通親子らの赦免を実現したのは筑前候斉溥であった。」









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