『アメリカ同時代史 You can't be neutral on a moving train』
ハワード・ジン(著)/田中和恵、斎藤南子(訳)/
明石書店1997年
「「正義の戦争」という政府のプロパガンダに踊らされた第二次大戦に参戦し、戦後は公民権運動、ベトナム反戦運動などに尽力した著者が、自身の歴史に即しながら、真の民主主義とは何かを語る。」
「日本語版の刊行にあたって」 下「」引用。
「-略-今度は広島と長崎の原爆投下を記念する八月集会に出席するよう招待を受けました。このたびは妻も同伴し、世界各国から集まってきた人々の仲間入りをして、強国による核兵器増強に反対の意思表示をいたしました。(今これを書いているときに、アメリカの核戦力担当の将軍がすべての核兵器廃絶に賛同し、核兵器を使用することは「道徳的に弁明の余地がない」とする劇的な発言をしています。)
私たちが広島で目撃したことは、原爆の被害に会ったことに、また数多くの広島を生みだす恐れのある死の軍備拡大の競争には絶対に参加しないという日本の方々の決意に、私たちは感動しました。日本で多くの友人ができました。-略-」
光がさしこむ……。下「」引用。
「歴史に対する視点を変えるときに初めて、我々の暗い気持ちに光が差し込んでくるのである。この二○世紀に何度も驚いてきたことを考えてほしい。急に民衆の運動が起こったこと、専制政治が突然崩壊したこと、消し去られてしまったと思われていた火種が突然勢いを取り戻したことを。我々は驚いたのである。それは、怒りが静かにくすぶっていることに気がついていなかったから、抗議を表わす最初のかすかな声に、バラバラであるが抵抗の兆しに、気がついていなったからである。これらは絶望の最中にあって、わくわくするような変化の兆候だったのである。バラバラの活動が手を結びはじめ、一人一人の行動が組織化された活動となり、そしてあるとき、状況にまったく希望が持てないと思われたとき、一つの運動が突然生まれてくるのである。」
黒人の大学へ。下「」引用。
「コロンビア大学で歴史学の博士課程が終わりに近づいたころ、当時ニューヨークに来ていたスペルマン・カレッジの学長の面接を受けてみないか、と就職課からの連絡があった。-略-」
ヒットラーとの戦争……。下「」引用。
「ヒットラーの人種差別主義に反対する戦いとされている戦争にもかかわらず、黒人兵に対する隔離制度の存在に気づき、胸が痛かった。-略-」
白人の権利組織……。下「」引用。
「あらゆる黒人大学の経営者たちとアトランタ市の白人の権力組織との間には、不文律の協定ができているかに見えた。我々白人は、おまえたち黒人がこじんまりとしたカレッジを持つことは認めよう。黒人の娘たちを教育して、教師やソーシャルワーカーとして、さらに医者や弁護士として黒人の地域社会で働かせることはよろしい。おまえたちの邪魔はしない。白人の教授陣も数名ならよろしい。クリスマスには、我々白人のなかには有名なスペルマン・コーラスを聞きにスペルマン・カレッジに行く者もあるであろう。その代わり、おまえたちも我々の生活を邪魔しないでほしい。」
これでは、民主主義ではないだろう……。
黒人の医者逮捕……。下「」引用。
「ある晩、彼のアドバイスが必要な患者と電話で話していたとき、白人女性が割り込んできて、電話をしなくてはならないから、彼の電話を切るよう命令した。自分は医者であって、患者と話しをしている最中だと説明すると、相手は「電話を切れ、このニガーめ」と言った。昔風の黒人の医者だったから別の答えをしただろうが、若いスミス先生は「おまえこそ電話を切れ、このあばずれ女め」と答えた。
翌日彼は逮捕され、彼の弁護士に通知されないまま法定に引き出され、白人の女性に卑猥な言葉をつかったということが八カ月間他の囚人と一つの鎖につながれて過ごす刑を言い渡された。刑務所で鎖につながれた囚人たちの前に立たされたとき、もしこの町を即刻立ち退くなら刑を免除すると言われた。翌日からフォートバレーの黒人には、黒人の医者がいなくなった。」
問題があるのは、まず白人女性だろう……。
「静かな時代」下「」引用。
「あらゆる南部の州と同様、ジョージア州にも座り込み抵抗運動が爆発的に起こりはじめる前の「静かな」時代にも、人目につかず、記録にも残されず、時には無意味に見えるような、一人一人の活動があり、これが抵抗精神の火を消さずにきたのである。このような行動は多くの場合つらい経験であった。しかしこれが怒りの火に燃料を与え、南部を変革させる偉大な力へと発展させていったのである。」
日本も静かだけど、ずっとそうであるとき限らない……。
マスメディアのウソも理解しはじめてきている……。
自分たちの力で。下「」引用。
「当時黒人の男性、女性、子どもたちがオルバニーでおこなったことは英雄的行為であった。彼らは百年にわたって身につけてきた受け身的な態度から抜け出たのだ。それも合衆国政府の手を借りないでおこなったのだ。憲法にどう謳っていようとも、約束がどうなされていようとも、政府がどのように奇麗事を言おうとも、自分たちがこれから成し遂げようとすることはすべて自分たちの力でなされなければならないことを身にもって知っていたのである。」
エリック・ワインバーガー……。下「」引用。
「私はエリック・ワインバーガーの隣を歩いていた。彼は伝説的な平和運動家で、南部の刑務所における拷問や、殴打や、家畜棒で突かれることに耐え抜いたつわもので、刑務所で三一日間ハンストをしたことのある男である。私たちが並んで歩いているとき、エリックは行進の警備をしている兵隊たちを指さして、「こういうことに賛成ですか?」と言った。
「ええ、兵隊たちがいてくれてうれしいです」と私は答えた。私は彼の言いたいことがわかっていた。彼は平和主義、無政府主義の原則をしっかり守っているのだ。たとえ自分のためになろうとも、国家の機関は使わない、暴力的な人種差別主義者に対しても武力を用いないという原則である。しかしもし市民の圧力によって良いことをおこなう力となるなら、国家の力を使うことを私は絶対に拒否するものではないのである。我々は意見の違いを認めあった。」
殺人州……。下「」引用。
「一九六三年の夏、ロズと私がミシシッピ州グリーンウッドを訪れたとき、SNCC〔学生非暴力調整委員会〕はすでにこの州で二年間活動していた。しかし「活動」という表現では現実を伝えることにはならない。黒人の間で、ミシシッピ州は殺人州として知られていたからである。」
もくじ
ハワード・ジン(著)/田中和恵、斎藤南子(訳)/
明石書店1997年
「「正義の戦争」という政府のプロパガンダに踊らされた第二次大戦に参戦し、戦後は公民権運動、ベトナム反戦運動などに尽力した著者が、自身の歴史に即しながら、真の民主主義とは何かを語る。」
「日本語版の刊行にあたって」 下「」引用。
「-略-今度は広島と長崎の原爆投下を記念する八月集会に出席するよう招待を受けました。このたびは妻も同伴し、世界各国から集まってきた人々の仲間入りをして、強国による核兵器増強に反対の意思表示をいたしました。(今これを書いているときに、アメリカの核戦力担当の将軍がすべての核兵器廃絶に賛同し、核兵器を使用することは「道徳的に弁明の余地がない」とする劇的な発言をしています。)
私たちが広島で目撃したことは、原爆の被害に会ったことに、また数多くの広島を生みだす恐れのある死の軍備拡大の競争には絶対に参加しないという日本の方々の決意に、私たちは感動しました。日本で多くの友人ができました。-略-」
光がさしこむ……。下「」引用。
「歴史に対する視点を変えるときに初めて、我々の暗い気持ちに光が差し込んでくるのである。この二○世紀に何度も驚いてきたことを考えてほしい。急に民衆の運動が起こったこと、専制政治が突然崩壊したこと、消し去られてしまったと思われていた火種が突然勢いを取り戻したことを。我々は驚いたのである。それは、怒りが静かにくすぶっていることに気がついていなかったから、抗議を表わす最初のかすかな声に、バラバラであるが抵抗の兆しに、気がついていなったからである。これらは絶望の最中にあって、わくわくするような変化の兆候だったのである。バラバラの活動が手を結びはじめ、一人一人の行動が組織化された活動となり、そしてあるとき、状況にまったく希望が持てないと思われたとき、一つの運動が突然生まれてくるのである。」
黒人の大学へ。下「」引用。
「コロンビア大学で歴史学の博士課程が終わりに近づいたころ、当時ニューヨークに来ていたスペルマン・カレッジの学長の面接を受けてみないか、と就職課からの連絡があった。-略-」
ヒットラーとの戦争……。下「」引用。
「ヒットラーの人種差別主義に反対する戦いとされている戦争にもかかわらず、黒人兵に対する隔離制度の存在に気づき、胸が痛かった。-略-」
白人の権利組織……。下「」引用。
「あらゆる黒人大学の経営者たちとアトランタ市の白人の権力組織との間には、不文律の協定ができているかに見えた。我々白人は、おまえたち黒人がこじんまりとしたカレッジを持つことは認めよう。黒人の娘たちを教育して、教師やソーシャルワーカーとして、さらに医者や弁護士として黒人の地域社会で働かせることはよろしい。おまえたちの邪魔はしない。白人の教授陣も数名ならよろしい。クリスマスには、我々白人のなかには有名なスペルマン・コーラスを聞きにスペルマン・カレッジに行く者もあるであろう。その代わり、おまえたちも我々の生活を邪魔しないでほしい。」
これでは、民主主義ではないだろう……。
黒人の医者逮捕……。下「」引用。
「ある晩、彼のアドバイスが必要な患者と電話で話していたとき、白人女性が割り込んできて、電話をしなくてはならないから、彼の電話を切るよう命令した。自分は医者であって、患者と話しをしている最中だと説明すると、相手は「電話を切れ、このニガーめ」と言った。昔風の黒人の医者だったから別の答えをしただろうが、若いスミス先生は「おまえこそ電話を切れ、このあばずれ女め」と答えた。
翌日彼は逮捕され、彼の弁護士に通知されないまま法定に引き出され、白人の女性に卑猥な言葉をつかったということが八カ月間他の囚人と一つの鎖につながれて過ごす刑を言い渡された。刑務所で鎖につながれた囚人たちの前に立たされたとき、もしこの町を即刻立ち退くなら刑を免除すると言われた。翌日からフォートバレーの黒人には、黒人の医者がいなくなった。」
問題があるのは、まず白人女性だろう……。
「静かな時代」下「」引用。
「あらゆる南部の州と同様、ジョージア州にも座り込み抵抗運動が爆発的に起こりはじめる前の「静かな」時代にも、人目につかず、記録にも残されず、時には無意味に見えるような、一人一人の活動があり、これが抵抗精神の火を消さずにきたのである。このような行動は多くの場合つらい経験であった。しかしこれが怒りの火に燃料を与え、南部を変革させる偉大な力へと発展させていったのである。」
日本も静かだけど、ずっとそうであるとき限らない……。
マスメディアのウソも理解しはじめてきている……。
自分たちの力で。下「」引用。
「当時黒人の男性、女性、子どもたちがオルバニーでおこなったことは英雄的行為であった。彼らは百年にわたって身につけてきた受け身的な態度から抜け出たのだ。それも合衆国政府の手を借りないでおこなったのだ。憲法にどう謳っていようとも、約束がどうなされていようとも、政府がどのように奇麗事を言おうとも、自分たちがこれから成し遂げようとすることはすべて自分たちの力でなされなければならないことを身にもって知っていたのである。」
エリック・ワインバーガー……。下「」引用。
「私はエリック・ワインバーガーの隣を歩いていた。彼は伝説的な平和運動家で、南部の刑務所における拷問や、殴打や、家畜棒で突かれることに耐え抜いたつわもので、刑務所で三一日間ハンストをしたことのある男である。私たちが並んで歩いているとき、エリックは行進の警備をしている兵隊たちを指さして、「こういうことに賛成ですか?」と言った。
「ええ、兵隊たちがいてくれてうれしいです」と私は答えた。私は彼の言いたいことがわかっていた。彼は平和主義、無政府主義の原則をしっかり守っているのだ。たとえ自分のためになろうとも、国家の機関は使わない、暴力的な人種差別主義者に対しても武力を用いないという原則である。しかしもし市民の圧力によって良いことをおこなう力となるなら、国家の力を使うことを私は絶対に拒否するものではないのである。我々は意見の違いを認めあった。」
殺人州……。下「」引用。
「一九六三年の夏、ロズと私がミシシッピ州グリーンウッドを訪れたとき、SNCC〔学生非暴力調整委員会〕はすでにこの州で二年間活動していた。しかし「活動」という表現では現実を伝えることにはならない。黒人の間で、ミシシッピ州は殺人州として知られていたからである。」
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