II.ときどき、雨
C029.キャンプ
「ぜったい、ぜったい。キャンプには行くわ。葵やヤスやチャボと約束したもの」
「何をききわけないこと言うの」
「おじいさんの悪いところが、うつったのかもしれないわ」
いつもの、優しいおばあさんとは思えないことを、平気で言った。
「ぜったい、ぜったい、ぜったいに! キャンプには行くわ。葵やヤスやチャボと約束したもの」
またユリカは言葉を繰り返した。それ以上に何を言っていいか、わからなかった。でも、今までのユリカなら、こんなことも言えなかったのだ。
葵やヤスやチャボなんて、ここの子どもたちは、同じ年齢でも、ユリカたちと違って、大人に反論するのである。それは、ごく当たり前のことのように、そしてユリカもここにいる間にヤスたちのように反論するようになったのである。
それはここが自由なのだからなのでは決してない。しかし、都会との違いはある。ここの地元の子どもたち、いや大人たちにしても会話を楽しみにしているからである。都会の生活では「イエスかノー」という選択だけのような気がするが、ヤスたちにはイエスとノーの間もあり、ノーにも強いノーがあり、軽いノーがあり、反論することができるのである。緩急自在に投げるピッチャーのように、さらに、さまざまな変化球を投げることができるのである。
これが本当の人間の会話で「単純にイエスかノー」しかない人は、世の中をクイズのようにテレビ・ゲームをしている人のようにユリカには思えるのである。
反対することも賛成することも会話のうちの一つなのである。ママはこの地方の人たちのことを感情的で下品みたいなことを言うけれど、そんなことはないとユリカは思う。
感情を生かせない人たちの方が寂しい気がする。感情が邪魔な社会のほうがどうかしていると思う。幸せと感じるのはその邪魔だといわれる感情なのである。でも、不幸なときにはこんな感情なんてないほうがいいと思う。
だけど、そんなことができないのが人間でもあるんだ。おじいさんが、そんなことを言っていたのを思い出した。
おじいさんは、少年犯罪があったのは、たいてい感情を押し殺した大人しい子供だと嘆いていたのである。おじいさんは、直接ユリカには言わないが、ユリカも自己主張するように間接的にはすすめていてくれていた。でも、おじいさんの習慣をかえることには反対みたいだった。
人間って何のために生きてているんだろうと、ここに来て考えるようになった。ヤスやチャボ、葵は楽しんで生きている。それは大切なことだと思う。でも、ママはそんな気持ちはちっともわからないのである。「イエスかノー」なのである。
いいえ、もっとひどいのである。「イエス」しかないのである。ママのご機嫌をとっていたら、それしかないのである。そんなことをしていたら、私の人生じゃなくなるわ?
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ありがとうございます。
[レインボー・ループ]もくじ
C029.キャンプ
「ぜったい、ぜったい。キャンプには行くわ。葵やヤスやチャボと約束したもの」
「何をききわけないこと言うの」
「おじいさんの悪いところが、うつったのかもしれないわ」
いつもの、優しいおばあさんとは思えないことを、平気で言った。
「ぜったい、ぜったい、ぜったいに! キャンプには行くわ。葵やヤスやチャボと約束したもの」
またユリカは言葉を繰り返した。それ以上に何を言っていいか、わからなかった。でも、今までのユリカなら、こんなことも言えなかったのだ。
葵やヤスやチャボなんて、ここの子どもたちは、同じ年齢でも、ユリカたちと違って、大人に反論するのである。それは、ごく当たり前のことのように、そしてユリカもここにいる間にヤスたちのように反論するようになったのである。
それはここが自由なのだからなのでは決してない。しかし、都会との違いはある。ここの地元の子どもたち、いや大人たちにしても会話を楽しみにしているからである。都会の生活では「イエスかノー」という選択だけのような気がするが、ヤスたちにはイエスとノーの間もあり、ノーにも強いノーがあり、軽いノーがあり、反論することができるのである。緩急自在に投げるピッチャーのように、さらに、さまざまな変化球を投げることができるのである。
これが本当の人間の会話で「単純にイエスかノー」しかない人は、世の中をクイズのようにテレビ・ゲームをしている人のようにユリカには思えるのである。
反対することも賛成することも会話のうちの一つなのである。ママはこの地方の人たちのことを感情的で下品みたいなことを言うけれど、そんなことはないとユリカは思う。
感情を生かせない人たちの方が寂しい気がする。感情が邪魔な社会のほうがどうかしていると思う。幸せと感じるのはその邪魔だといわれる感情なのである。でも、不幸なときにはこんな感情なんてないほうがいいと思う。
だけど、そんなことができないのが人間でもあるんだ。おじいさんが、そんなことを言っていたのを思い出した。
おじいさんは、少年犯罪があったのは、たいてい感情を押し殺した大人しい子供だと嘆いていたのである。おじいさんは、直接ユリカには言わないが、ユリカも自己主張するように間接的にはすすめていてくれていた。でも、おじいさんの習慣をかえることには反対みたいだった。
人間って何のために生きてているんだろうと、ここに来て考えるようになった。ヤスやチャボ、葵は楽しんで生きている。それは大切なことだと思う。でも、ママはそんな気持ちはちっともわからないのである。「イエスかノー」なのである。
いいえ、もっとひどいのである。「イエス」しかないのである。ママのご機嫌をとっていたら、それしかないのである。そんなことをしていたら、私の人生じゃなくなるわ?
閑話休題 後ほど、だいぶ先ですが、 エコ・キャンプというのを展開していきたいと 思っております。 それは、エコロジーを子どもたちに 教えるキャンプです。 まあ、エコをつけようが、 つけまいが、私の子ども 時代でも、自然とふれあえる キャンプでは自然の大切さを 学びました。 |
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タッチの差で鱧男さんに先行しましたが、こんなこともあるんですね。
友情出演してもらいました。
私は、子供時分、田舎のB.Sで自然とのふれあい方等、色んなことを教わったものですが。
コメントも、削除できますから、書き込みしやすいですよね。
それに京都の話題も多いみたいです。
縦書きのBlogもあるようです。
http://www.skyarc.co.jp/img/tategaki01.jpg
ちょっと前に見たと思います。
少子化の影響か、子どもは少なく、
中高年が同じ格好して、子どもと同数くらいおられました。