龍の声

龍の声は、天の声

「マッカーサーが見た日本人の弱点」

2017-11-16 19:43:00 | 日本

「マッカーサーが見た日本人の弱点」について掲載されている。
参考になるので要約し記す。



1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。マッカーサー軍15万人に対し、日本軍はその3分の1にも満たない4万3000人。マッカーサーは余裕で撃退できると自信を持っていた。
しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、フィリピンの航空戦力を壊滅まで追い込む。その状況にマッカーサーは、「日本軍の戦闘機は、ドイツ人パイロットが操縦していた」と本部に報告するまで日本軍を低く評価していた。
ところがその日本軍の怒涛の進軍は止まらず、マッカーサーは侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになり、マニラ近くのバターン半島での防衛戦しか残された道はなかった。
  
小さい半島で大軍を抱えることになったマッカーサー。致命的なことに食料がなく、飢餓と疫病、そして連日の日本軍の猛攻に誰もが衰弱していった。「このままではマッカーサーが捕虜になりかねない」と見かねたワシントン側が、マッカーサーにフィリピン脱出を命じた。
悩んだ末の決断ではあったものの、司令官たる者が部下を捨て、なんと8万人以上もの捕虜を残して、マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった…
マッカーサーの父はフィリピンの初代総督で、彼自身もフィリピンで家族と生活し、フィリピン陸軍元帥に就任。第2の故郷とも呼べるような土地で、日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。しかもその汚点をつけたのは、彼にとって格下のはずだった「まさかの日本人」。
その胸をえぐるような悔しさを表した行動が、2年半後の1944年から見られる。
既に日本は大戦力を失い、サイパンも陥落。アメリカの参謀本部の提案は、無防備な日本本土を攻撃してトドメをさすか、日本軍が大軍を配置するフィリピンを素通りして台湾に侵攻するかだった。

しかしマッカーサーは、自分に大汚点をつけた日本人への恨みを晴らすために、自分の思い入れがある土地を奪還するためだけに、フィリピンへの侵攻を進めてしまう。
 
その数、マッカーサー軍125万人に対し、日本軍40万人。
出だしのレイテ沖海戦で日本海軍が大敗し補給路を断たれてからは、フィリピンの日本軍は完全に孤立した戦いに。どの戦いでも日本軍は敗れた。しかし食料も、武器も、弾も、清潔な水もないのに、敵に決定的な勝利をなかなか渡さない日本軍。

どれだけしぶとく最後まで戦ったかは、フィリピンでの日本兵の死亡数が十分に物語っている…
40万人いた日本兵のうち、戦死したのは34万人。負傷者も合わせたら無傷だった者はいない。ほぼ全滅になるまで、飢えと疫病にまみれながら、日本軍は徹底抗戦した。

これは、マッカーサーが逃走した先のフィリピンの戦いとは真逆。あのときのアメリカ軍残兵はほとんどが降伏して捕虜となっていた。抗戦状態も長引き、日本は補給もないのに終戦まで10ヶ月を耐えた。
フィリピン制圧後もマッカーサーの日本への恨みは収まらず、大汚点を付けられた時の指揮官・本間中将と、復讐戦時の指揮官・山下大将の2人を、弁護なしのリンチ裁判のような形で処刑に追い込んでいる。
山下大将はフィリピンで絞首刑にされたが、軍服の着用も許されず、囚人服のままの処刑だった。遺体は刑場付近に埋められたらしいが、現在も所在は不明。本間中将もその後銃殺刑にされたが、処刑日時は1946年4月3日午前0時53分。ちょうど4年前にフィリピンで、本間中将がバターン半島に籠るマッカーサー軍に総攻撃の命令を下したのがこの日時だった。

マッカーサーの大人げない執拗な恨みが、滲み出てると言うしかない。
 

◎マッカーサーが見つけた日本人の弱点とは?

しかし、こんなに日本に恨みを持つ人物が、日本占領政策のトップに就任したとは、私たちにとって最大の不幸だったのかもしれない…。

マッカーサーは1941年からずっと日本人について考えてきた。いや、もっと前からかもしれない。マッカーサーは小さい頃父親と共に来日し、日本軍の英雄である乃木希典や東郷平八郎と会う機会すらあり、その生き方に感銘を受けた日本通でもあった。
そんなマッカーサーだからこそ、日本人の強みの原点は既に見抜いていた。

それは、日本人特有の精神文化、規律のとれた習慣、周りを思う道徳心。

この強みこそ、日本人の弱点になってしまった。「これを奪うことが日本を再起不能にする。二度とアメリカに歯向かわない国にする」と確信したマッカーサーは、これを教育で徹底的に破壊することに力をいれる。
そのスピードは早く、占領開始から2週間もせず「国体」と「神道」の抹殺を命令、2ヶ月後には現行教科書の使用を停止、4ヶ月後には教育界やマスコミから都合の悪い人物を公職追放で駆逐、8ヶ月後には不適格な思想を持つ教職員を排除するための審査を開始。この審査にあたっては、全国130万人もの教職員が対象になった。そして1年後には、高等師範における英才教育の廃止なども行われている。

そして、明治より学校教育のベースになっていた「教育勅語」が、「軍国主義を生む」として捨て去られる。だが、それを学んできた私たちの祖父母、その親兄弟たちは、そんなに好戦的な恐ろしい人たちだったのだろうか?
さらに、同じく明治から日本が「欧米列強に牛耳られまい」と取り組んだ、日本的なイデオロギーや列強の研究などを扱った書物が、7千冊以上GHQにより葬り去られた。先人の叡智の結晶とも言えるものが、現代の私たちの目には決して触れないようになってしまった。
 

◎日本が弱くなってしまった理由

こうして、過去から受け継いできたものを全部捨て去って、日本の教育が空洞化したところで日本人に教えられるようになったのは、「歴史の上澄み」と「平和を愛する民主主義」。
これでは日本が精神的主柱をなくしてボロボロになるのは必然だった。「過去を失い自分の国のなりたちがわからない」とはつまり、「自分のこともわからない」ということ。アイデンティティを喪失し、目隠し状態になった日本人。これは、マッカーサーの計画通りになってしまった。
結果として私たちの多くは自分の国の歴史、特に近代史を「なんとなく」しかわからない状況になり、しかも「侵略戦争をした」とする後ろめたい気持ちすら埋め込まれている。なので外国から謝罪を求められれば、毅然とした対応が取れず、何度も何度も謝罪してしまう。

日本政府や高官が戦後、公式に謝罪に触れたのは45回。非公式ならそれ以上になる。
「あの太平洋戦争はなぜ起きたのか?」 こんな大事なことも私たちが話したり考えたりすることすら、タブーのように扱われてきた。

先人たちがどうしてあんなに血を流したのか、何のために戦ったのか、どうしてあんな戦い方ができたのか? それに答えられないままでいる。
一般的には、軍部の一部が暴徒化して、侵略行動を激化させていったとされている。これは、マッカーサーが実質責任者だった東京裁判の考え方でもある。
しかし果たしてそれだけだったのか? 資源もない日本が国力と国民を削ってあれだけ大きな戦争をしたのは、ただの一部の人間の利己的な侵略のためだったのだろうか? 
 

◎日本が戦争した理由に答えられない日本人
  
その答えのためにもう少し時代を遡ってみれば、太平洋戦争前も、日本は驚くほど多くの大戦争をしている。太平洋戦争、日中戦争、第一次世界大戦、日露戦争、日清戦争…。そしてその前は国内でも西南戦争と戊辰戦争が起きている。
しかしその前はといえば? 天下泰平の江戸時代は260年も戦争がなく平和だった。その日本人が、江戸が終わってから明治維新を経て、終戦に至るまで約70年。決して豊かな国ではないのに、多額の借金を背負い、多くの犠牲を出して、人が変わったように戦争に走ったのはなぜだったのか?
明治以降に日本人が作り上げた教育勅語や数々の書物をマッカーサーがあそこまで徹底的に葬り去ったのは、そこには何か知られたくない秘密でもあったのだろうか?
日本が数多くの戦争に走った起源である明治時代。そのころに育まれた精神や知恵を失った日本人。この空白には、一体何があったのか。
これを紐解いていくには、この時代の始まりである明治維新に重要な鍵があるのが必然的に見えてくる。しかし、マッカーサーが作り出した空白を抱えたままの私たちの目には、それが見えなくなってしまっている。あの革命の本当の姿は、どんなものだったのか?
タブーを破って私たち日本人の歴史を新たに見つめ直すとき、マッカーサーが仕掛けた目隠しがはずれ、彼が恐れた本来の日本人が目覚めてくるのではないだろうか。
 













「秋山真之の軍事分析とは、」

2017-11-15 06:09:56 | 日本

日露戦争での二人の英雄 陸軍 秋山好古と海軍 秋山真之の兄弟である。

次に、海軍 秋山真之「秋山真之の軍事分析」について掲載されていた。
以下、要約し記す。



秋山真之が生まれました。日露戦争時の連合艦隊参謀で、日本海海戦勝利に尽力したことで知られます。

今回は秋山が晩年の、日本海海戦から12年後の大正6年(1917)に発表した『秋山海軍少将 軍談』の中における軍事分析について紹介してみます。
「日本海海戦の勝敗が、僅々三十分間で沈着したと云へば、或は驚く人があるかも知れぬが、夫れが真正の事実に相違ない」「日本海海戦の決戦は、三十分間で片が付いたが、武器の進歩したる未来の海戦は、十五分間で勝敗が決するであらう」
 
秋山がそう語ったのは大正2年(1913)のこと。翌大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、日露戦争当時には存在しなかった航空機、潜水艦、戦車などが次々と登場し、戦いに投入されていきます。それについて秋山は次のように語ります。

「兎に角潜水艇と云ひ飛行機と云ひ、今度の戦争が初舞台で、いまだ其の応用の初期に属し、尚ほ発達の前途は遼遠と云ふべきものである。しかし人智の向上には際限なく、今に戦艦が水中を潜り、巡洋艦否な巡天艦が空中を飛来する時代が到来して、平面戦闘が立体戦闘に推移すべき筈で、一戦を経る毎に一歩一歩と其の階段を上りつつある」

太平洋戦争時に登場する大型潜水艦や、「超空の要塞」と恐れられた大型爆撃機の猛威を、早くも予見しているかのようです。また以後の戦争が二次元から三次元へ、つまり航空決戦や水中戦闘という「立体戦闘」が主となることをピタリと言い当てています。
そして大正6年、海軍を拡張する日本は、いつアメリカと戦争をするのかというアメリカの新聞記者の質問に対し、次のように答えています。

「我日本には此の如き非常識のことを誤信する愚か者は一人も居らない。又能く物の数理を考へ見よ。新聞の伝ふる如く日本はこれから六、七年掛かりて僅かに八四艦隊、即ち十二隻の主力艦を作らんとしつつあるのである。如何に日本が神国でも、十二隻で今三十三隻の主力艦を作らんとする米国に来攻し得ると思ふか」

「斯く言へばもし優勢の艦隊さへあれば来攻せぬとも限らぬと言ふであらうが、古来神聖なる王道の上に立てる日本帝国は、彼の覇者の如く弱国に対して決して侵略を事とするやうな国柄でない」

「さりながら米国であれ、また他の諸国であれ、万一東亜に於ける我伝来の権利を侵害し、帝国の存立を危うくすることあれば、其の時こそ十二隻はおろか一隻の老朽艦を以てしても極力抗戦するであろう。而して必ず敵を微塵に撃破して見せる。もしそれが一年、二年で撃破し得られざれば、百年、千年たっても勝たなければやまないのだ」

これもまた大東亜戦争を予見するかのような言葉です。「我日本には此の如き非常識のことを誤信する愚か者は一人も居らない」とアメリカと事を構えるような非常識なことを考える愚か者はいないというのが、明治人の合理的判断というものであったでしょう。
しかしその一方で、「さりながら米国であれ、また他の諸国であれ、万一東亜に於ける我伝来の権利を侵害し、帝国の存立を危うくすることあれば、其の時こそ十二隻はおろか一隻の老朽艦を以てしても極力抗戦するであろう」というのは、非合理的というよりも、明治人の気概と受け止めるべきと考えます。

表では怜悧ともいえるほどの現実的、合理的判断に基づきながら、しかしその内側には、日本人として王道を守り、日本は侵略を行なう国柄ではないという誇りを持つ。さらに他からの侵略には断固屈しない気概を秘める。この毅然とした姿勢こそ、後世の日本人が明治の人々に学ぶべき点なのかもしれません。










「日本騎兵の父・秋山好古とは、」

2017-11-14 06:04:51 | 日本

日露戦争での二人の英雄 陸軍 秋山好古と海軍 秋山真之の兄弟である。

先ずは、陸軍 秋山好古の「男子は生涯一事をなせば足る」について掲載されていた。
以下、要約し記す。



昭和5年(1930)11月4日、秋山好古が没しました。「日本騎兵の父」として知られ、秋山真之の兄としてもおなじみです。

安政6年(1859)に伊予松山の下級藩士の家に生まれた秋山信三郎好古は、若い頃から家計を助けるために銭湯で働きますが、学問を怠らず、明治10年(1877)に19歳で陸軍士官学校に入学。軍人の道を歩みます。明治18年(1885)には陸軍大学校を卒業、目前に開けていた出世街道に目もくれず、旧藩主の若様・久松定謨(さだこと)の御付としてフランスに留学し、フランス騎兵隊を研究しました。日本の騎兵は、この好古の決断に始まるといっても過言ではありません。帰国後、明治26年(1893)に騎兵第一大隊長に任官し、日清戦争で実戦経験を積みます。その後、ロシアとの対決が避けられない情勢の中、質量ともに勝る世界最強のロシア・コサック騎兵とどう戦うかが、好古のテーマとなりました。

明治36年(1903)に騎兵第一旅団長に就任した好古は、麾下の騎兵の兵力をこれ以上増大できなない現状では、火力を強化するしかないという結論に至ります。彼が目をつけたのがホチキス機関銃で、上層部を説得し、11挺を装備させました。これが後に大きくものをいうことになります。明治37年(1904)に日露開戦となると、好古率いる騎兵第一旅団は第二軍(司令官・奥保鞏)に属し、遼東半島に上陸後、騎兵ならではの機動力を活かして、先行偵察と敵の通信網破壊に活躍します。第二軍司令部は好古に歩兵一個連隊と砲兵一個中隊を加え、「秋山支隊」へと改編。さらに遼陽会戦前には、騎兵三個連隊に工兵、砲兵を一個中隊ずつ増強され、秋山支隊は騎兵師団以上の規模になりました。上層部の好古への期待が窺えます。

遼陽で敵を追うと、秋山支隊は日本軍の最左翼として北上しました。明治38年(1905)1月、ロシア軍は日本側の意表をついて、日本軍左翼に大軍で猛攻を仕掛けてきます。黒溝台会戦でした。この時、矢面に立たされたのが立見尚文率いる弘前第八師団と、好古の秋山支隊です。立見と好古という名将二人の懸命の踏ん張りで、黒溝台は辛うじて守られました。

そして同年2月末、「日露戦争の関ケ原」と称される奉天会戦が始まります。日本軍は右翼から左翼にかけて、鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍、そして旅順から到着した第三軍が戦列を布き、25万の全軍を挙げて敵32万に総攻撃を開始しました。この時、好古は左翼の第三軍とともに迂回行動をとり、機動力を活かして一気に北上します。対するロシア軍の騎兵の多くは、すでに敵中深く潜行する永沼秀文挺身隊や建川美次挺身隊を追撃して奉天付近から離れており、好古には幸いしました。それでも敵騎兵が秋山支隊の阻止に動くと、好古はなんと部下たちを馬から下ろし、騎乗戦闘を仕掛けてきた敵を機関銃で斉射して撃退。当時の騎兵の常識を破った戦法で、秋山支隊は第三軍の進路を切り開いたのです。3月7日には奉天に20kmにまで迫り、ロシア軍の総司令官クロパトキンが撤退を命じる大きなきっかけを作りました。

日露戦争で存分にその力を発揮した好古は、その後、第十三師団長や近衛師団長を歴任し、大正5年(1916)に陸軍大将に累進。大正12年(1923)に予備役となり、元帥叙任の話もありましたが、これは好古本人が固辞したといわれます。翌大正13年(1924)、請われて故郷松山の私立北予中学校(現在の県立松山北高校)の校長に就任。陸軍大将まで務めた者のポストでは本来ありませんでしたが、好古は「自分でお役に立つのなら」と引き受け、以後、退職までの6年間、無遅刻無欠勤を続けました。

男子は生涯一事をなせば足る」が好古の口癖でした。それは好古が世界最強のコサック騎兵を破る騎兵隊を育てた「一事」を指すという解釈もありますが、好古の晩年の姿を思うにつけ、その一事とは「あくまで誠実に、自分の役割を果たす」ことを意味していたのではないかとも思われます。
昭和5年(1930)、秋山好古没。享年72。臨終間際に発した「馬引けい」が最期の言葉であったといわれます。






















「乃木希典の前半生」

2017-11-13 06:04:50 | 日本

乃木希典の前半生~その武士道精神はいかにして育まれたのか?


嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、乃木希典が生まれました。

嘉永2年、乃木は長州の支藩・長府藩士・乃木希次の3男として、麻布日ケ窪の長府藩邸(現・六本木ヒルズ)で生まれました。乃木家は代々藩医を務める家柄でしたが、武芸に秀でていた父親が取り立てられ、80石を賜っています。それだけに父親も武士らしくあろうと努め、乃木に対しても厳しい教育を施したといわれます。ところが幼少の頃の乃木は、幼名の「無人(なきと)」をもじって、「泣き人」と呼ばれるぐらい、身体が弱く泣き虫でした。父親は容赦をせず、冬のある朝、寒さを口にした乃木を井戸端に連れて行き、頭から冷水を浴びせたといいます。その後、藩政について意見を上申したことが睨まれて、父親は閉門謹慎となり、帰国を命じられました。乃木も父親とともに長府に戻ります。10歳の時のことでした。

文久3年(1863)、15歳の乃木は藩の集童場に入り、文武の鍛錬に努めます。しかし虚弱な体質では武芸を磨くのは無理と悲観し、将来は学問で身を立てたいと考えますが、父親に反対されたため、家を出奔しました。乃木が向かったのは、萩の親戚・玉木文之進の家です。玉木はあの吉田松陰の叔父であり、松陰を厳しく鍛え上げた人物として知られます。玉木は父母に背いて家出してきた乃木を武士にあるまじき行為と叱りつけ、入門を許しません。しかし玉木の妻が乃木を憐れんで、なんとか玉木家の世話になることになりました。玉木は乃木に学問を教えず、ひたすら畑仕事を手伝わせます。すると1年も経たぬうちに、乃木の身体は見違えるほど逞しくなりました。

翌元治元年(1864)、乃木は晴れて入門を許され、玉木に師事します。さらに萩の藩校・明倫館にも通い始めました。すでに6年前、吉田松陰は安政の大獄で落命していましたが、玉木は乃木に、松陰直筆の「士規七則」を与え、松陰の精神を伝授します。「士規七則」は武士の心得を記したもので、人の人たる所以、士道のあり方、天皇への忠義などが説かれていました。かくして乃木は、玉木を通じて間接的ながら松陰の志を受け継ぎ、「生涯の師」とするのです。そんな息子に父親の希次は、自ら筆写した山鹿素行の『中朝事実』を送りました。

慶応2年(1866)、18歳の乃木に初陣の時が訪れます。第二次長州征伐(四境戦争)でした。攻め寄せる幕府軍に対し、乃木は長府藩報国隊の一人として、小倉口で戦います。この方面の指揮官は高杉晋作。いうまでもなく松陰の愛弟子です。小倉口の幕府軍5万に対し、奇兵隊を主力とする長州勢はわずか1000。しかし高杉は「勤皇ノ戦ニ討死スル者也」と書いた襷をかけて指揮をとり、馬関海峡を渡って敵前上陸を敢行しました。この戦いで、乃木は高杉から大砲1門と兵十数人を預かる小隊長に抜擢され、初陣ながら、小倉城一番乗りを果たしたといわれます。まさに劇的なデビューでした。

明治4年(1871)、陸軍少佐に任命された乃木は、4年後には熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得に就任。当時、萩では前参議の大物・前原一誠らが反政府の気運を高めていましたが、その有力幹部の一人が、乃木の5歳下の弟・玉木正誼でした。彼は玉木文之進の養子となっていたのです。明治9年(1876)、萩の乱で弟・正誼は戦死、弟子たちが世を騒がせた責任をとって恩師の文之進も自刃しました。肉親と恩師を一度に失った乃木が、悲嘆しなかったはずはありません。

そんな彼を支えたのは、おそらくは松陰の教えであったはずです。 そして翌明治10年(1877)、西南戦争が勃発。29歳の乃木は歩兵第14連隊を率いて、熊本城を囲む薩摩軍の攻撃に向かい、熊本城北方の植木付近で敵と凄まじい白兵戦となります。一時撤退を決意した乃木ですが、激しい戦闘の中で、連隊旗を敵に奪われました。天皇から授かった軍旗を奪われるのは、天皇への忠義を吉田松陰から受け継ぐ乃木にすれば、恥辱以外の何物でもありません。乃木は自ら何度も死地に立ち、敵の銃弾に当たって死のうとしますが果たせず、西南戦争終了後、切腹しようとしますが、友人の児玉源太郎に止められて断念しました。後年、乃木が明治天皇のあとを追って殉死を遂げる際、この軍旗喪失への謝罪を第一に挙げたことはよく知られています。

軍旗喪失を恥じて、自ら命を絶とうとした乃木のことが明治天皇の耳に入ります。天皇は、「殺してはならん」と乃木を前線指揮官の職から外すよう命じました。極めて責任感の強い乃木に、天皇は信頼の念を寄せられたからであるといわれます。これが、乃木と明治天皇の初めての出会いでした。

その後、乃木はしばらく自暴自棄となりますが、明治21年(1888)にドイツ留学から帰国すると、人が変わったように堅物となります。一説に、ドイツ軍人の質実剛健ぶりに感化されたためともいわれますが、逆の可能性もあります。すなわち西洋文明の本質である「覇道」に気づき、日本はそれを手本とするのではなく、日本の精神を重んじるべきという思いに至ったのかもしれません。そしてそこに、松陰の志を受け継ぐ者であるという、自らの原点を再確認したのでしょう。日本古来の武士たちが重んじてきた徳義を大切にする生き方を、身をもって世に示そうとしたのです。

日露戦争の16年前のことでした。









「昭和天皇をお育てした乃木大将」

2017-11-12 07:15:42 | 日本

国史百景に「昭和天皇をお育てした乃木大将」について掲載されている。
以下、要約し記す。



◎孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考える。

『日露戦争後、陸軍の大御所・山県有朋は、乃木の才幹と大功から、参謀総長に栄転させようと明治天皇に内奏したが、天皇は日を改めて、山県にこう言われた。』

先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした。

明治天皇ご自身が若かりし頃、西郷隆盛の発案で、山岡鉄舟など武士道で鍛えられた人格者に厳しく育てられた。それもあって、皇孫殿下らを立派な天皇・皇族に育てるには、乃木のような高潔な人物こそが適任だと考えられたのだろう。

山県は後に「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」としみじみ語っている。


◎いさをある人の教(おしえ)の親にして

天皇は学習院長任命の際に乃木にこう言われた。

『おまえは二人の子供を(日露戦争で)失って寂しいだろうから、その代り沢山の子供を授けよう。』

いかにも乃木に対する慈愛の籠もったお言葉である。さらに次のような御製(天皇の御歌)を乃木に賜った。

いさをある人の教(おしえ)の親にしておほしたてなむやまとなでしこ

「おほしたてなむ」とは「いつくしみ育てよう」、「やまとなでしこ」とは、三人の皇孫を含む生徒らを指す。「いさをある人」とは、乃木のことだが、戦功だけでなく、武士道精神にあふれた誠忠ぶりをも指すのだろう。

乃木はあまりの大任に軍人たる自分はとてもその任にあらずとためらったが、かくも懇切なる思し召しには辞退する由もなかった。次の歌で決心を語っている。

身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくいざらめや
(身は老いて疲れるといえども、天皇の大き恵みに報いないわけにはいかない)


◎士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって

「陛下の乃木に対する異常の御信任」がどこから来たのかを示すお言葉がある。明治天皇はかつて側近にこう語られた。

『乃木は他のものと心掛けが違ってをる。多くのものは休職になるとか、予後備に編入されれば遠くで挙行する演習地にはでかけぬ。でかけてもただ後方にあるのみであるが、乃木のみは決して左様ではなく、いかなる遠い場所にでも必ず来ている。来ておるのみでなく、士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって視察しておる。』

当時、義和団事件で大陸に派遣された乃木の部下が、分捕った馬蹄銀をひそかに私有したという事件があり、自らの直接の責任はないのに、師団長を辞職し休職を願い出ていた。その休職の間にも、かくも熱心に演習の最前線に出ていたのである。

乃木の能力だけでなく、明治天皇は、その無私の誠忠ぶりを国軍将兵、広くは日本国民のお手本と考えられていたのだろう。

日露戦争が勃発すると、乃木は第3軍司令官として最前線に戻ったが、それには明治天皇の深い思し召しがあった。乃木は見事にそれに応えて、旅順要塞の攻略で日本の勝利に貢献し、降将ステッセルとの仁愛と礼節にあふれた会見で、世界を感嘆させたのである。


◎心からの御敬礼の誠を尽くされんことを

「明治40(1907)年1月、乃木は学習院長に着任し、その4月、後に昭和天皇となられる裕仁(ひろひと)親王を学習院初等科に迎えた。その後、雍仁(やすひと)親王(後の秩父宮)、宣仁(のぶひと)親王(後の高松宮)が入学された。学習院には、そのほかにも皇族方の子弟が数多く在学していた。」

乃木は持ち前の誠忠ぶりで院長の職務に向かった。皇族方のご教育方針として、「行状よろしくない時は遠慮無く正すこと」「成績についても斟酌しないこと」「勤勉、質素にお育てすること」などを定めた。

裕仁親王のご入学後しばらくの間、登下校の際に玄関で深々と頭を下げて、お迎えお見送りをした。裕仁親王が挙手の礼を返されると、乃木は親王を呼び止めて、こう申し上げた。

『尊師に対されました時には、心からの御敬礼の誠を尽くされんことをひとえに懇願し奉ります。』

敬礼一つに対しても、心からの誠を込めるべきだという注意である。親王は真剣にやり直しをされた。

親王も乃木を深く敬愛されて、何かにつけて「院長閣下は、、、」と言及されるようになった。制服や靴下が破れて侍女が新品にとりかえようとすると、こう言われた。

『院長閣下が着物の穴のあいているのを着てはいけないが、つぎのあたったのを着るのはちっとも恥じゃないとおっしゃったから、穴のあいたのにはつぎをあてておくれ。』

昭和天皇は、戦後の復興の後も、つぎをあてたコートを着られていたという。


◎うちのおやじ

乃木には立派な院長官舎が用意されていたが、それを使わずに、中等科・高等科の全生徒とともに寄宿舎暮らしをした。朝は4時半頃に起き、寝具など身の回りのことはすべて自分でやった。

その後、雨が降ろうと雪が積もろうと、寄宿舎6寮を巡視し、初夏から晩秋にかけては雑草刈りもした。朝食と昼食は生徒らとともにし、生徒らに親しく声をかけ、姿勢の悪い者には注意を与えた。

8時からの授業では各教室を巡視。一つの教室では必ず始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って、生徒の勉強ぶりを観察した。放課後には、自ら防具をつけって竹刀をとり、生徒に稽古をつけた。

夕食の後、6時から10時まで生徒の自習の時間には、乃木は自室で読書をし、10時、消灯ラッパとともに、生徒と同様に床についた。赤坂の自宅に帰るのは月に1、2度であり、それ以外は、この生活を殉死の時まで、5年半続けるのである。

陸軍大将にして伯爵という天下の名将が、こうした質素かつ献身的な生活を生徒らとともに送ったことは、多感な生徒らに多大な感化を及ぼさずにはおかなかった。

学習院生徒は大半が華族の子弟で、ぜいたくに甘やかされて育ったものも多かったが、乃木ほどの人物が生徒とまったく同様の生活をしているのだから、不平不満の言いようがない。生徒らは一ヶ月もたたぬうちに乃木を慈父のように慕い、みな「うちのおやじ」と呼ぶようになった。


◎生徒たちとの談話

「乃木の居室には、しばしば生徒が押しかけたが、いつも喜んで迎えた。そのような時の談話を通して、生徒に己の信ずる道を語った。」

乃木は吉田松陰の教えを、松陰の叔父にあたる玉木文之進(たまき・ぶんのしん)を通じて受けたが、松陰がさらに師としたのが山鹿素行(やまが・そこう)だった。ある時、乃木は素行の主著『中朝事実』を生徒に示して、こう語った。

『この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕(きんぼ)する先生じゃ。・・・

さてこの書物の書名となっている『中朝』というはつまり日本国の事で、『事実』とは日本国存立の大事実で、それを正しく静観直視せしめて、皇道日本の将来を卜(ぼく、判断)したのがこの書名の根本精神じゃ。』

その序文について、生徒たちにこう説いた。

『人は愚かな者で幸福に馴(な)れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじゃ。高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を受けても、その国土、その大愛に狃(な)れると自主独立すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々(ひんぴん)として続出する。これが国家存立の一大危機というものじゃ。』

『どうじゃな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じゃ。これは決して頑迷な国粋論を主張しているものではない。

よきをとりあしきをすてて外国(とつくに)におとらぬ国となすよしもがな

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の秘鍵(ひけん)ではあるが、それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。』


◎世界精神と国家精神とは両立するものでありましょうか

田中という生徒が世界精神と国家精神とは両立するものでありましょうかと質問した。乃木はこう答えた。

『うん、面白い、確かに両立するものだ。世界精神を発揚せんとするには、まず正しき国家精神を擁護熱愛せねばならない。各自の国家を完全な道義国として生長せしめることによって、始めて全人類も一大飛躍を生ずるのだ。

日本国家を完全な道義国として生長せしめるためには、まず建国の基礎たる一君万民、君臣一如の精神を探求し、各個の品格を高め、破邪顕正(邪道を打ち破り、正しい道理をあきらかにすること)、救国済民(国を救い、民を苦しみから救済する)の大旆(たいはい、大きな旗)を世界に確立する大勇猛心を要するものじゃ。

日本にさし昇る道義の光輝をもって世界の闇を照らさしむということは最高最大の愛国心である。この愛国の赤誠と、田中のいわゆる自主的世界精神とは究極において必ず両立するものじゃよ。』

「道義の光輝をもって世界の闇を照らさしむ」の一例が、降将ステッセルとの仁愛と礼節にあふれた会見で、世界を感嘆させたことだろう。乃木は当時、国際的にも広く尊敬されていた日本人の一人であった。その世界精神は、乃木の国家精神からもたらされたものであった。

乃木が説いたこの言葉は、多感な生徒たちの胸に深い志を植えつけたであろう。裕仁親王もそのお一人だったに違いない。


◎私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった

「明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御され、9月13日の御大葬後に殉死するという覚悟を胸に秘めていた乃木は、9月10日、裕仁親王と両宮にご挨拶をした。」

乃木は裕仁親王に、これからは皇太子となり、いずれは皇位に就かれるための御学問も必要になるので、「一層の御勉学らせられんことを願い奉ります」と申し上げた。さらに山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾(かんらん)の『中興鑑言(ちゅうこうかんげん)」を差し上げて、こう申し上げた。

『これは希典が平素愛読仕(つかまつり)ります本にて、肝心のところには希典が自ら朱点を施し置きましたが、今はいまだお分り遊ばされざるべきも、御為になる本にて追々お分かり遊ばさるべく、只今のうちは折々お側の者にも読ませて、お聴きとり遊ばさるるよう献上仕り置きます。』

鋭敏な裕仁親王は、いつもとは異なる様子を感じとられて、「院長閣下はどこかへ行かれるのですか」と尋ねられた。乃木は、「御大葬に参列する英国コンノート卿の見送りで、18日の学習院始業式にはお目にかかれないかも知れませぬ」と答えた。

これが裕仁親王と乃木大将との最後の接見となった。晩年、陛下は「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と言われている。

昭和天皇は大東亜戦争の終戦に際し、「私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う」と言われて御聖断を下され、また戦後は焦土となった日本全国を約8年半かけて御巡幸された。

ご自身の事は一切構わず、ひたすらに国家国民を思われる至誠の生き方は皇室の伝統的精神を受け継がれたものであるとともに、ご幼少の頃の乃木大将の人格的感化も大きかった。裕仁親王を立派な天皇に育てたいという明治天皇の願いを、乃木大将は渾身の誠忠を持って果たしたのである。










「軍事機密 統帥綱領」

2017-11-11 07:02:57 | 日本

本綱領は主として高級指揮官に対し、方面軍及び軍統帥に関する要綱を示すものとす。

昭和三年三月二十日


参謀総長 陸軍大将 鈴木 荘六




「軍事機密 統帥綱領」

第一 統帥の要義

1、現代の戦争は、ややもすれば、国力の全幅を傾倒して、なおかつ勝敗を決し能わざるにいたる。
故に我が国はその国情に鑑み、勉めて初動の威力を強大にし、速やかに戦争の目的を貫徹すること特に緊要なり。政戦両略の指導はことごとくこの趣旨に合致せざるべからず。

2、政略指導の主とするところは、戦争全般の遂行を容易ならしむるにあり。
故に、作戦はこれと緊密なる協調を保ち、殊に赫々たる戦勝により、政略の指導に威力ある支掌を得しむること肝要なり。
然れども、作戦は元来戦争遂行のため最も重要なる手段たるをもって、政略上の利便に随従することなきはもちろん、其の実施に当たりては、全然独立し、拘束されることなきを要す。
政略と作戦の関係は最高統帥の律するところにして、その直属の高級指揮官は、よくその方針を体して事に従うべく、爾他の指揮官にありては、専念、作戦の遂行に努力すべきものとす。

3、作戦指導の本旨は、攻勢をもって、速やかに敵軍の戦力を撃滅するにあり。
これがため迅速なる集中、発指たる機動および果敢なる殲滅線は特にとうとぶところとす。
状況により、作戦上の要求もしくは政略上の考慮にもとずき、速やかに必要の地域を占領するために作戦を指導すべき場合あり。

4、統帥の本旨は、常に戦力を充実し、巧みにこれを敵軍に指向して、その実勢力特に無形的威力を最高度に発揚するにあり。
最近の物質的進歩は著大なるをもって、みだりにその威力を軽視すべからずといえども、勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること古来変わることところなし。まして我が国軍にありては、寡少のの兵数、不足の資材をもって、なおよく前期各般の要求を充足せしむべき場合僅少ならざるをもって、特に然り。すなわち戦闘は将兵一致、忠君の至誠、匪躬の節義を致し、その意気高調に達して、ついに敵に敗滅の念慮を与うるにおいて、初めてその目的を達するを得べし。

5、敵軍の意表に出ずるは、戦勝の基をひらき、その成果を偉大ならしむるために特に緊要なり。
すなわち追随を許さざる創意と、旺盛なる企図心とにより、敵を制さざるべからず。しかも、たんに用兵の範囲においてこれを求むるのみならず、科学工芸の領域においてもまたこれに努むるを要す。
戦争間、その経過にともなう幾多の教訓は、諸般事象の改変と相まち、必ずや戦法その他の革新を促すべきをもって、絶えず戦績の攻究に努むると同時に、将来の推移を洞察し、かつ、機会を求めて必要の訓練を加え、常に最善最妙の方策によりて敵軍の機先を制すること緊要なり。

6、巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。
宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。
特に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意を要す。
敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。

7、統帥の妙は変通きわまりなきにあり。
千変万化の状況、特に彼我の実力、敵軍の特性及び作戦地の特質に応じて、各々適切なる方策を定むべく、みだりに一定の形式に捉われ、活用の妙機を逸するが如きは、厳にこれを戒めざるべからず。

第二 将帥

8、軍隊志気の消長は指揮官の威徳にかかる。
いやしくも将に将たるものは高邁なる品性、公明なる資質および無限の包容力をそなえ、堅確なる意志、卓越せる識見および非凡なる洞察力により、衆望帰向の中枢、全軍仰募の中心たらざるべからず。
かくのごとくにして初めて軍隊の志気を作興し、これをしてよく万難を排し、難苦を凌ぎ、不撓不屈、敵に殺到せしむるを得べし。

9、高級指揮官は大勢を達観し、適時適切なる決心をなさざるべからず。
これがため常に全般の状況に通暁し、事に臨み冷静、熟慮するを要す。然れども、いたずらに判断の正鵠を得ることに腐心して機宣を誤らんよりは、むしろ毅然としてもこれを断ずるに努むるを要す。また、たとい決心に疑惑を生じたる場合といえども、自ら主動の地位に立ち、もって動作の自由を獲得せざるべからず。蓋し一度受動の地位に陥らんか、兵団の大なるに従い、これより脱逸すること、益々困難となるをもってなり。

10、高級指揮官は常にその態度に留意し、ことに難局にあたりては、泰然動かず、沈着機に処するを要す。この際内に自ら信ずるところあれば、森厳なる威容おのずから外に溢れて、部下の嘱望を繋持し、その志気を振作し、もって成功の基を固くするを得べし。

11、高級指揮官は予めよく部下の識能および性格を鑑別して、適材を適所に配置し、たとい能力秀でざるものといえども、必ずこれに任所を得しめ、もってその全能力を発揮せしむること肝要なり。賞罰はもとより厳明なるを要すといえども、みだりに部下の過誤を責めず、適時これに樹功の機会を与え、もってその発刺たる意気を振起せしむるを要す。

12、高級指揮官は用兵一般の方法に通ずるのみならず、我が軍の真価を知悉し、予想する敵国および敵軍ならびに作戦地の事情に詳ならざるべからず。
故に、居常自ら研鑽を重ぬるほか、進んで軍隊及び後進に接し、親しく駿進の機運に触るるとともに、これに己の薀蓄を伝え、かつ世界の大勢とくに隣邦の情勢を明らかにし、もって作戦の指導に関し、既に戦争の初動より遺憾なきを期するを要す。

第三 作戦軍の編組

13、作戦軍は通常数個の軍に区分せられ、作戦方面によりてはこれを方面軍に統一せらる。
14、方面軍は通常数個の軍、騎兵集団、野戦重砲兵部隊、航空部隊、地上防空部隊及び通信部隊ならびに兵站機関等よりなり、なお、これに攻城部隊等を付せらるることあり。
軍は通常数個の師団、独立工兵大隊、航空部隊、地上防空部隊、通信部隊及び架橋材料中隊ならびに兵站部隊等よりなる。なお、これに戦車部隊、騎兵旅団、独立山砲兵連隊、野戦重砲兵部隊、攻城部隊等を付せらるることあり。
15、作戦軍の編組おは、軍隊区分より一時これを変更すること得べしといえども、その必要やむや速やかに旧に復すべきものとす。

第四 作戦指導の要領

16、作戦指導の要は、卓越せる統帥と敏活なる機動とをもって、敵に対し常に主動の地位を占め、最も有利なる条件のもとに決戦を促し、偉大なる戦勝を収めて、速やかに戦局の終結を図るにあり。
これがため、彼我の態勢に鑑み、益々我が軍の利点を発揮するとともに、敵軍の特性を考え、巧みにその弱点に乗ずること緊要なり。
17、作戦軍兵力の増大にともない、戦場の全局もしくは各方面において、しばしば外線及び内線作戦発生す。彼我当初の態勢または状況の推移に応じ、巧みに両種作戦の利点を捕捉し、ことに彼我の実力、敵軍の特性等に従い、適切に作戦指導する者よく勝を制す。
外線作戦は敵に殲滅的打撃を与るうに便なり。
これが指導にあたりては、全般の兵力配分ならびに各方面の策応を適切ならしむるとともに、作戦範囲の拡大にともない、益々後方機関の運用に留意すること肝要なり。
内線作戦もまた状況によりしばしば偉功を奏す。
兵力優勢なるも攻撃精神旺盛ならざる敵軍に対しては特に然り。然れども、この作戦は往々受動の弊に陥りやすく、各個撃破の成果全なからざれば後害を残すをもって、この指導にあたりては、巧みに戦機を看破し、特に勇猛大胆なる決心と敏速活発なる機動とを必要とす。
18、方面軍司令官または独立軍司令官は作戦の発起に先立ち、作戦計画を策定し、その推移にともない、逐次これを具体化して作戦指導に資するとともに、各機関の業務に必要なる準縄を与う。
19、作戦計画は作戦の目的、兵力の大小に従い、多少その要領を異にし、一定の形式による必要なきも、通常先ず作戦方針、ついで作戦指導要領を確定したる後、これが実施上必要なる諸条件(例えば捜索及び長方、集中地到着後における兵団の部署、これらの行動に必要なる諸施設すなわち宿営、給養、交通、兵站等ならびに作戦の補助手段すなわち宣伝謀略等)に及ぶを可とす。
20、作戦計画は洗練を重ね、推敲を加えて初めてこれを確定し、一たび決するや、みだりにその要綱を変ずるものにあらず。ことに作戦方針の如きは終始これが貫徹を期し、その根本目的は断じてこれを逸すべからず。

第五 集中

第六 会戦

一 通則
52、会戦の目的は敵を圧倒殲滅し、もって優勝の地位を確保するにあり。
攻勢は会戦の目的を達する唯一の要道たり。たとい敵のため一時機先を制せられたる場合といえども、なお、適切かつ猛烈果敢なる攻勢により、よく戦機を挽回し、進んでこれを勝利に導かざるべからず。
53、会戦指導の要は、常に不利なる決戦を敵に強うる如く、極度に機動力を発揮し、使用し得る限りの兵力をつくして、所望の時機、所望の方面において優勢を占むるとともに、敵軍の意表に出で、かくの如くにして益々主動の地位を確保すると同時に、いよいよ各兵団の戦力を更張し、もって至短の期日に甚大の戦果を収むるにあり。
この際、主力を指向せざる方面にありては、最小の兵力をもって忍び、巧妙適切なる作戦の指導により、主力の決戦を容易ならしめざるべからず。
戦局の推移をして、ついに堅固なる陣地の力攻にいたらしめざる如く、会戦を指導すること特に緊要なり。

第七 特異の作戦

第八 陸海軍協同作戦

第九 連合軍の作戦


統帥参考 統帥権

統帥権の本質は力にして、其の作用は超法規的なり

(統帥権は)輔弼(ほひつ)の範囲外に独立す

統帥権の行使及び其の結果に関しては、議会に於いて責任を負わず。議会は軍の統帥・指揮並びに之が結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず

参謀総長・海軍軍令部長等は、幕僚にして憲法上の責任を有するものにあらざるが故に~

兵権を行使する機関は、軍事上必要なる限度に於いて直接に国民を統治することを得









「三宅 観瀾とは、」

2017-11-10 06:10:49 | 日本

<逸話>

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われることとなった。
殉死のこ目前の九月十一日、乃木希典大将は午前七時に参内して皇太子と淳宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読しております書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長になったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した山鹿素行の 『中朝事実』と三宅観瀾(かんらん)の『中興鑑言(ちゅうこうかんげん)」を差上げたのだった。




三宅 観瀾(みやけ かんらん、延宝2年(1674年) - 享保3年8月21日(1718年9月15日))は、江戸時代中期の儒学者。名は緝明(つぐあき)、字は用晦、通称は九十郎、号は観瀾。兄に大坂懐徳堂の学主・三宅石庵がいる。


◎生涯

延宝2年(1674年)、京都の町人儒者である三宅道悦の次男として生まれる。
はじめは浅見絅斎を師とし、後に木下順庵の門下となる。元禄11年(1698年)に江戸に下り、翌元禄12年(1699年)に栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕えた。彰考館総裁の鵜飼錬斎が、観瀾がかつて書いた楠木正成についての文章を徳川光圀に見せたことがきっかけで彰考館編修となり『大日本史』編纂に従事。新田義貞・楠木正成や名和長年の伝を書く。元禄13年(1700年)には200石を給され、宝永5年(1708年)に編修と兼務で進物番に昇進。宝永7年(1710年)に彰考館総裁となる。正徳元年(1711年)、新井白石の推薦により江戸幕府に登用されるが、徳川吉宗が将軍職を継いだ際に失脚した白石に連座することを恐れて『懐書』という弁明を書き、この中で自らが順庵門下であることを否定している。
享保3年(1718年)、死去。梁田蛻巖など多くの文人にその死を惜しまれた。


◎著書

『中興鑑言』:建武の新政における後醍醐天皇の得失を論ずる。南朝正統論を主張。
『支機間談』:朝鮮使に随従した学士書記と唱和筆談した文章を集める。
『烈士報讐録』:赤穂浪士を論ずる。










「教育勅語」口語訳

2017-11-09 06:23:53 | 日本

◎「教育勅語」口語訳

私は私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して、日本の国をおはじめになったものと信じます。

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげてまいりましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らかければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。



◎十二の徳目

①父母に孝             親や先祖を大切にしましょう
②兄弟に友             きょうだいは仲良くしましょう
③夫婦相和し            夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
④朋友相信二ず          友だちはお互いに信じあいましょう
⑤ をす         自分の言動をつつしみましょう
⑥博愛 衆に及ぼす        広くすべての人に愛の手をさしのべましょう
⑦学を修め業を習う        勉学にはげみ職業を身につけましょう
⑧知能を啓発            知識を高め才能を伸ばしましょう
⑨を            人格の向上につとめましょう
⑩をめをく     広く世の人々や社会のためにつくしましょう
⑪をんじにう   規則に従い社会の秩序を守りましょう
⑫ にず         正しい勇気を持って世のため国のためにつくしましょう



◎自立ある国創り「道義国家日本」


『真の愛国者は道義に生き、広々とした心で大同団結できる包容精神をもち、至誠を貫き、炎のごとく燃え、熱き血潮で祖国日本を守らんがために決起する勇者でなければならない。』










「中朝事実とは、」

2017-11-08 06:09:31 | 日本

『中朝事実』を何故、われわれが学ぶ必要があるのか?

(荒井 桂先生)
山鹿素行が「中朝事実」を現わしてから、400年経った現在もまた、日本は中国の台頭、膨張政策の脅威に直面している。日本と言う国の本質や未来に向けた方向性が問われているいまのこの時に、「中朝事実」を改めて紐解いてみるのは大変に意義があることである。
さらに、戦後、日本人の心に弊害をもたらしたものの一つはGHQによる占領政策であった。GHQによる占領政策によって押し付けられた、いわゆる「自虐史観」によって日本の歴史を醜悪に歪曲して国民の誇りや自信、使命感を喪失させるに至った。ここにGHQによる占領政策の本来の狙いであったのである。
日本人自身が誇りと自信、民族としての使命感を取り戻し、しかもそれを健全で中正なものにするには、どうしてもこの自虐史観の誤りを正し、日本人としての姿勢を確かなものにしていく必要がある。
将来の展望と活路を見出す要諦は、まさに日本の歴史を正しく学び、知ることにある。その意味では、日本はいま精神的に大きな変革期を迎えていることは間違いない。



『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。


◎『中朝事実』の内容

当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。


◎『中朝事実』は全13章から成り立つ。

第1章 天先章 
天孫降臨をはじめとする神話が皇室への結びついていく歴史が記されている。

第2章 中国章
日本こそが中華と称すべき優秀な国だと強調。

第3章皇統章
天照大神が孫の瓊瓊杵尊に下した神勅(天壌無窮の神勅)から連綿と続いている皇室の徳を称えている。理想の国を目指した孔子の説いた精神は外朝ではなく、太古からわが国に存在していると素行が述べるのは、まさにこの皇室の伝統にはかならない。
さらに日本が無窮の国体を維持する根底には、民の心を心としてきた皇室の至誠の精神があると述べ、その上で易姓革命によって王朝が消滅を繰り返した支那との根本的違いを明確にしていくのである。

さらに、
神器章 神道の三種の神器(勾玉、鏡、剣)が知、仁、勇の象徴であること。
神治章 人材の任用の在り方。
禮儀章 治平や外交の要は礼にあること。
化功章 わが国固有の政治の大道は外国人をも引きつけ数多く帰化していること。
等々、
様々な視点で他国にはない日本の優位性が綴られている。

このように江戸時代初期の時点で、早くも日本人の民族的主体性の確立を促すという先駆的役割を果たしたのが、素行であった。

 
◎山鹿素行の「万世一系」論

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、天皇家の大変な古さと不変性という「万世一系」を強調した。山鹿素行は、神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。『中朝事実』で下のように論じている。

ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』


◎「中朝事実と乃木希典大将」

国を磨き西洋近代を超える!

元治元年 (一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩
で起き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木
が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民
になれ」と害って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木は
まず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元 (一八六五)年、乃木は晴
れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の 「士規七
則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は
密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許さ
れたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以
来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行してい
た。

日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝すると、山悪有明は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇は、「乃木については朕の所存もあることりやから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保筆が任命された。
他日、山懸が天皇に拝謁すると、天皇は「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじやが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製

「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって
指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外
の日は寮に人って生徒たちと寝食を共にした。寮の談話室で、乃木は素行と『中朝事実』について、生徒たちに次のように語った。

「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じや。わしは少年時
代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大
な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというもの
じや」

乃木は『中朝事実』の真価について、「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじや
な、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくし
て新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじや」と
述べ、その序文については、次のように語っていた。 「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじや。
高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その人愛になれると自
主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々
として続出する。これが国家存立の一大危機というものじや」 「どうじやな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じや。これは決して頑迷な国
粋論を主張しているものではない。

「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな」

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の
秘鍵ではあるが、。それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。

盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随善し、いたずらに自国を卑下し罵倒すると
いうのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそ
こにあるのじや。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進す
るにある」 (岡田幹彦氏「乃木希典」展転社、平成十三年)

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われ
ることとなった。殉死のこ目前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子と淳
宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読してお
ります書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長に
なったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した 『中朝事実』を差上げたのだった。






















「神皇正統記」

2017-11-07 06:06:41 | 日本

◎日本人でさえ知らない日本人の特徴

外国人と話をしていると、必ず「日本人の特徴は何か」という話題がでる。自分自身の特徴を認識するのは難しい作業だ。北畠親房(1293~1354年)が著した「大日本者神國也(おおやまとはかみのくになり)」で始まる『神皇正統記』(1339年)は、14世紀の書物であるにもかかわらず、現代に通じる日本人の特徴を見事に表現している。原文は中世の古文なので読みにくいが、幸い永原慶二、笠松宏至両先生による優れた現代語訳がある。親房は、本書の冒頭で日本についてこう定義する。

<大日本は神国である。天祖国常立尊がはじめてこの国の基をひらき、日神すなわち天照大神がながくその統を伝えて君臨している。わが国だけにこのことがあって他国にはこのような例はない。それゆえにわが国を神国というのである。>


◎日本(本朝)の特徴は、インド(天竺)、中国(震旦)と比較するとはっきりする。

<中国はとりわけ乱逆で秩序のない国である。昔、世の中がすなおで道が正しかった堯、舜の時代でも賢者をえらんで王位につかせることがあったから、皇統が一筋に定まっているということはない。夏・殷・周以後、乱世となり、力をもって国を争うこととなったから、民衆の中から出て王位についた者もあるし、辺境の戎狄(戎は西方、狄は北方のえびす)から身をおこして国を奪った者もある。あるいは代々王臣の身でありながらその君主を圧倒してついに王位を譲りうけた者もある。伏犠氏ののち、中国では天子の氏姓、王朝の交替は三十六に及んでいるから、乱のはげしさは言語道断というほかはない。この点、ただわが国のみは天地開闢の初め以来今日にいたるまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承はすこしも乱れがない。時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずから本流にもどって連綿とうち続いてきている。これはすべて天照大神の天壌無窮の神勅が変わることなく生きているからであり、他国の場合と全く異なるところである。>












「朝鮮半島有事 在韓邦人退避へ、自衛隊機活用」

2017-11-06 05:57:35 | 日本

産経新聞が「朝鮮半島有事 在韓邦人退避へ、自衛隊機活用」と題して掲載している。
以下、要約し記す。



◎政府、枠組み検討

政府が、米国の軍事行動などに伴う朝鮮半島有事にあたり在韓邦人を避難させる非戦闘員退避活動(NEO)について、米国やオーストラリア、カナダを中心とした有志連合による枠組みでの対処を検討していることが24日、分かった。邦人退避に自衛隊機を活用するには韓国政府の同意が必要で、韓国で抵抗感の強い自衛隊を有志連合の一角と位置づける方が同意を得やすいと判断している。

各国の退避活動で日本が主要な中継地点になることを念頭に、政府は米国とともに有志連合構築を主導する。軍事作戦とは切り離した有志連合の正当性を印象づけるため、退避活動という人道的措置に関する国連決議の採択を求めることも視野に入れている。

韓国国内には仕事などを理由とする長期滞在の日本人が約3万8千人、観光などが目的の短期滞在が約1万9千人で計約5万7千人いる。米国人は20万人以上で、オーストラリア人やカナダ人も多いとされる。

北朝鮮が弾道ミサイル発射や核実験で挑発をエスカレートさせれば米軍の北朝鮮への軍事攻撃とそれに対する北朝鮮の韓国攻撃などに発展する危険性が高まる。有事が不可避の情勢となれば政府は在韓邦人に退避を勧告し、早期に民間航空機で日本へ帰国させる。

ただ、企業の駐在員や在韓日本大使館関係者、政府職員のうち一部はその後も韓国国内にとどまらざるを得ないとみられる。そうした邦人を有事が目前に迫った段階で緊急退避させなければならない一方、民間機は運航していない可能性が高く、自衛隊の輸送機の派遣が不可欠となる。

政府内には、有事が迫れば韓国政府は自衛隊機の派遣を拒否しないとの指摘があるが、韓国世論の動向が見極めにくいことも踏まえ、有志連合を構築することが得策との見方が多い。

NEOで有志連合が機能すれば、韓国国内での輸送を調整しやすくなる利点もある。有事が迫れば民間空港が閉鎖される事態が想定され、運用が過密化する軍用空港での離着陸や駐機場の割り振りを有志連合の連携で円滑化できる。








「法華経とは、③」

2017-11-05 06:52:44 | 日本

◎日本での法華経の流布

『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)
日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが伺える。
天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。

なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)

615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。


◎鎌倉時代

鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。 大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。
一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出し、専修念仏を説いた。
曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。

日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。


◎近代

近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話作家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝、石原莞爾、創価学会を結成することとなる牧口常三郎、戸田城聖らがよく知られている。

1945年太平洋戦争での敗戦後、法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。








「法華経とは、②」

2017-11-04 06:01:09 | 日本

◎妙法蓮華経二十八品一覧

■法華経とは
お釈迦様が目的としたのは、衆生の救済である。説法も衆生の機根に応じて、さまざまに説かれ、それが経典となっています。
『法華経』は紀元前後にインドで成立して、シルクロードを経て、中国、日本へと伝わった。中国では鳩摩羅什訳のものが多く使われ、日本で最初に『法華経』を講じたのは聖徳太子だといわれる。
『法華経』は全二十八品からなり、迹門と本門の二つに大きく分けられ、さらに序分、正宗分、流通分の三部に分けられることから、二門六段という。迹門は釈尊が久遠の仏であるという実体を明らかにする以前の教えで、本門で釈尊が久遠の仏であることを教え、この教えを信じ、実践する者に仏教での実成への道が明らかにされる。


■『法華経』二十八品のあらすじ

●序品第一
 釈迦が三時に入っていて、人々は『法華経』の説法を望んで集合する。

●方便品第二 
 すべてのものに仏の悟りを得させることが釈尊の目的で、三乗などの区別はないとする。

●譬喩品第三 
 弟子が一乗の教えを大白牛車にたとえ、釈尊の真意を復唱する。

●信解品第四 
 弟子が長者と窮子のたとえで、お釈迦さまの慈悲あふれる教え導きをのべる。

●薬草喩品第五
 草木に大小差があっても等しく雨をうけるように釈尊はすべての人を等しく教え導く。

●授記品第六
 弟子に仏になれるだろうと予言。

●化城喩品第七
 修行に耐えられない者には、目前の到達点を設けて導いていくという教え。

●五百弟子受記品第八
 可能性に気づき、信じることの大切さを教える。

●授学無学人記品第九
 修学者にすべての者は仏になれると予言。

●法師品第十 
 『法華経』に喜びを感じる者、説く者は仏の加護があり、最高の悟りに到達すると説く。

●見宝塔品第十一
 巨大な塔に端座した多宝如来が釈尊の説法をたたえ、誘う。教えの舞台が地上から空中へ移る区切りの章。

●提婆達多品第十二 
 『法華経』を信じる者は幼女でもその身そのままで仏になれると説く。

●勧持品第十三 
『法華経』を広めるためには「命は惜しみません」と弟子たちが表明する。

●安楽行品第十四
 伝道者が正しく教えを伝えるための四つの指針「安楽行」を示す。

●従地涌出品第十五
 釈尊は過去から教えをのべて古い弟子たちが地中から出現することをのべる。

●如来寿量品第十六
 実在した釈尊は仮の姿で、久遠の仏であると、本来の姿を説き示す『法華経』の真髄。

●分別功徳品第十七
 釈尊が久遠の仏だと信じ伝道する者の功徳を最上とする教え。

●随喜功徳品第十八 
 『法華経』を聞き、信じる者の功徳について語る。

●法師功徳品第十九 
 『法華経』を信じ、となえ、説き広め、書写する者は、それぞれ優れた能力を持つようになるという教え。

●常不軽菩薩品第二十
 誰に対しても礼拝し、敬意を表して、どんな仕打ちにも礼拝をやめなかった常不軽という修行者は自分であると、釈尊が語る。

●如来神力品第二十一 
 釈尊が菩薩たちに宣教の使命を与える。

●嘱累品第二十二
 求道者に『法華経』を広めさせ、諸仏にそれぞれの世界に戻ることを勧める。

●薬王菩薩本事品第二十三
 仏に身を捧げ、わが身を燃やして世界を照らした薬王菩薩の物語。舞台が地上に戻る。

●妙音菩薩品第二十四
 三十四の姿に変身、『法華経』信者を助け、庇護する妙音菩薩の物語。

●観世音菩薩普門品第二十五
 『観音経』のこと。観世音菩薩が人々を救済する物語。
 
●陀羅尼品第二十大 
 「陀羅尼」とは呪文のこと。『法華経』の守護神が幸福の呪文を伝道者に贈る。

●妙荘厳王本事品第二十七
 薬王薬上両菩薩の王子が異教の両親を改宗させる物語。

●普賢菩薩勧発品第二十八
 エピローグ。普賢菩薩が『法華経』を信じる者を救うことを釈尊に誓う。

これが「法華経」二十八品のあらすじです、









「法華経とは、①」

2017-11-03 07:03:09 | 日本

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。
インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。


◎法華経の構成と内容

妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。


◎迹門の中心思想

迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。


◎本門の中心思想

後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。

迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。

さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。

薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。


◎日蓮大聖人と法華経

日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。

法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。

大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。

ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。











「拈華微笑」

2017-11-02 05:59:54 | 日本

「拈華微笑」(ねんげみしょう)『無門関』について学ぶ。



「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(ただ)迦葉尊者のみ、破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊云く、「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 涅槃妙心(ねはんみょうしん) 実相無相(じっそうむそう)微妙法門(みみょうのほうもん)あり。不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す」と。


ある日のこと世尊は霊鷲山での説法において大衆にむかって静かに金波羅華〈こんぱらげ〉という花を高くかざして示された。このとき大衆はその意味が分からず、ただ黙ったまま何の言葉も出せなかった。このとき一番弟子の迦葉尊者だけが破顔し微笑したのである。この微笑に世尊は迦葉こそわが真意を解したると、これを受けがい「吾に、正しき智慧の眼(法眼)をおさめる蔵があり、涅槃〈悟り〉に導く真実絶対なる法門がある。
この法門は言葉によらず、文字によっても教えられない微妙の法門である。この我が真実の法の一切を摩訶迦葉に伝授する」と釈尊の悟りのすべてが伝授されたのだという故事によって生まれた拈華微笑である。

 ところでこの拈華微笑の話は中国で創作されたものだといわれているが、真理を伝えるということのおいては何時、どこで作られれた話であるかとか、史実は如何にという問題ではなく、この話頭に釈尊の心、禅の心が息づいていることこそ肝心なのである。このように、本当に大切なことは文字や言葉で説明することも、教えることも出来ないことなのだ。

仏法の伝播とはそういうもので、釈尊より歴代の仏祖に大法は相続される嗣法され伝灯の相承が行われてきたことである。これを嫡々相承(てきてきそうじょう)というが、特に禅門ではこの不立文字 教外別伝を大事にし、家風とする。よって文字や言葉によらず心から心に伝わる以心伝心、阿吽の呼吸にも似て禅の法門の奥義も師から弟子へ師資相承され、的々確実鮮明に継承されるさまを強調して的々相承(てきてきそうじょう)といったりもする。

世尊が拈華すれば、迦葉の微笑(みみょう)ということから仏法の継承がなされたことであるが、俗世間に染まるわれわれとて似たような言葉によらない阿吽の呼吸や以心伝心がある。親しいもの同士、心通い合うもの同士、或は親子においても恋人同士においても深い心の通いあう間柄においては言葉以上に一つのしぐさやサインでツーカーの心の伝え合いだってある。
それはまさに拈華微笑の関係だといえば道人たちに叱られるだろうか。

金波羅華がどんな花なのかは分からない。蓮の花だという説もあるが私的にはインドで普通に咲いていた椿の花に似た火炎樹の花がふさわしい気がする。だが、ここで言う拈華の花そのものに深い意味はなく拈華に対する微笑にこそ深い意味があるのである。

百万本のバラを贈らなくても、たった一本のバラの花をかざして彼女のハートを掴む安上がりの求愛の話も聞いたが、一本のバラは単にきっかけであって、既に二人の間には言葉によらなくても、文字によらなくても通じ合う阿吽の呼吸、以心伝心が合ってのことだろう。

我が禅門の同窓生に微笑(みみょう)とは言わないが微笑(びしょう)という姓の友がいる。学寮で同室になり初めて姓を聞いたときなんて変な名なんだという印象であったが、彼の先祖が深い仏教者でこの「拈華微笑」の微笑を姓にされたのかもしれないと思うと、ただそれだけで今もなお微笑君を尊敬しているし、これからも禅門の布教師として益々の活躍を期待している。