西村真悟さんが、「大日本帝国憲法は今も生きている」について記している。
以下、要約し記す。
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「現在の我が国の憲法」は何処に如何にして存在しているのか、である。
「我が国の憲法」とは何か、それは如何にして存在しているのか、が分からずして、そもそも改正論を唱えられないではないか。
私の考え、直感は、我が国の憲法は、万世一系の天皇を戴く我が国の歴史と伝統の中に存在している、というものである。
しかし、こう言い切ってしまえば、本通信で、これから述べることがなくなるので、この私の論を横に置きながら、現在の戦後の主流とは違う法学の伝統が京都にあることを指摘して、昭和二十一年十一月三日に公布され同二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」と題された文書とは別の「憲法」の体系があることを指摘しておきたい。
現在の司法試験や国家公務員試験を受けて法曹界や中央官僚界に生きる者達は、ほとんど東京大学教授が書いた憲法の教科書で学び答案を書いて合格してゆく。
つまり、江戸時代には昌平坂学問所の漢学が公的な権威を付与され、役人や幕府の御用学者には、昌平坂学問所で学んだ者が就任したように、戦後の現在は、東京大学教授の教科書を使った者が法曹界や役人界に送り出される。
そのロングセラーの「権威ある教科書」を書いた典型が、戦前は、大政翼賛会大賛成で、戦後は、「八月革命説」を唱えて日本国憲法の正当性を基礎づけた東京大学の宮沢俊義教授(明治三十二年生)である。
しかし、昭和二十年の八月に、革命などあるものか、馬鹿馬鹿しい。
こうゆう教科書という出発点が、馬鹿馬鹿しいのであるから、これで学んだ我が国の高級官僚や学者に、おっかしいのが出てくるのは当然ではないか。
「おっかしいの」とは、集団的自衛権や安保法制は違憲であるという学者や、カネを支払って若い女と酒を飲み、歓談など、をすることを貧困調査という役人である。
馬鹿、遊んだのではないか。
この昌平坂学問所の幕府の覚えめでたき学者に対して、京都には、戦前戦後の変節のない憲法学者がいる。
佐々木惣一教授(明治十一年生)と弟子の大石義雄教授(明治三十六年生)の京都学派が存在した。
京都大学の佐々木教授は、戦後、憲法にGHQの意向を取り入れることを嫌い、昭和二十年十一月二十四日、内大臣府御用掛佐々木惣一として昭和天皇に「帝国憲法改正の必要」を奉答した。
この佐々木博士の改正案は、百条からなる。
そして、第一条から第四条までの「天皇」の規定は、大日本帝国憲法を何ら変更させず、そのまま踏襲しているものである。
この佐々木博士の弟子の大石義雄教授は押しつけ憲法論や憲法無効・失効論そして改憲論を展開し、「保守反動の大石」という名誉ある呼称で呼ばれた学者である。
安保法制が違憲だという現在の学者の呼称と比べられよ。
次に、大石義雄先生の、最晩年の一文を紹介する。
江戸時代にも、幕府の昌平坂学問所における学問だけがあったのではなく、山鹿素行や広瀬淡窓や山田方谷などの幕府以外の在野の高士が学を唱えた。
そして、栄達のための幕府の官学よりも、在野の彼らの学問が社会の為になり社会を変革してゆく原動力となった。
それと同様に、戦後の現在、幕府の官学に匹敵するのはGHQの書いた「日本国憲法」である。
従って、このGHQの「日本国憲法」だけが、「憲法」だと思い込んで、「何をどう改正する」とか
「条文は全てそのままにして加憲する」とか言っているよりも、我が国の歴史を見つめ、一体、今、「生きている憲法」は何かを考えるために、大石義雄先生が、昭和五十四年三月に編纂した「大日本憲法制定史」(明治神宮編)の跋文を読んで戴きたい。
◎「大日本帝国憲法制定史」跋文
大日本帝国憲法は、明治天皇が皇祖皇宗の遺訓を体して欽定されたものであるから、大日本帝国憲法の精神的な基礎を為す日本思想を理解することなくしては、大日本帝国憲法の制定史を語ることはできないのである。
大日本帝国憲法は、現憲法から見れば旧憲法である。
しかし、社会は刻々として変わる。
占領目的達成の手段として作らされた現憲法も、いつまでもつづくといふわけにはゆかないのであり、いつかは変わらなければならないだろう。
その時は、大日本帝国憲法の根本精神が新憲法の名においてよみがへって来るだろう。
この意味において、大日本帝国憲法は、これからの日本の進路を示す光として今も生きているのである。
昭和五十四年三月吉日
大日本帝国憲法制定史調査委員長
京都大学名誉教授 法学博士 大石義雄