龍の声

龍の声は、天の声

「かるた」

2015-10-16 07:00:36 | 日本

◎道具

文字札・絵札ともに、あいうえお46枚ずつの札がある。一音につき一セットの読み札・取り札が用意されている。
文字札 - 取り札の絵の内容を書いた短い文章が書かれており、読み手(多くは大人)が声に出して読む。
絵札 - 読み札の内容を描いた絵と、読み札の短い文句の頭文字がひらがなで目立つように書いてあり、読み札を読むのに合わせて取り人が手を出して札を取る。


◎ルール

2人以上で行う。
取り札を平面(畳の上が多い)に広げ、取る人に見やすくする。
読み人が読み札を読む。
できるだけ早く、読み札に合った取り札を叩く(はじく、または押さえることもある)。先に叩いた方がその札を手に入れる(札を取る)。
全ての読み札、取り札がなくなるまで繰り返す。
より多くの取り札を取った方の勝ち。
子供が文字を覚えるための遊びでもある。


◎起源

語源はポルトガル語だが、同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、平安時代の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い(貝合せ)」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、元禄時代頃に今日の遊び方となった。
日本のかるたは、16世紀末頃、筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)で作り始められたと言われており、大牟田市には三池カルタ・歴史資料館がある。


◎古典的ないろはかるた

いろは47文字に対応した「いろはかるた」が最も古典的で有名である。なお、歴史的仮名遣いや字音仮名遣いに必ずしも準拠しているものではない。
ことわざを使っているが、内容は江戸、京都、大坂、上方、尾張などで各々異なっており、地方の特色が表れて、「郷土かるた」も各地に存在する。「犬も歩けば棒に当たる」で始まるものは、江戸かるた(犬棒かるた)である。

以下に示すものは伝統的な札の一例である。2012年現在市販されているものには、一部の札が差し替えられているものも多い(「ゐ」「ゑ」「京」の削除対象も含む)。江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「子は三界の首かせ」も同様に差し替え対象となっている)、下品な表現が含まれる(「屁をひって尻すぼめる」→「下手の長談義」[上方より流用])、差別的ニュアンスがあるなどが差し替えの理由として挙げられる。「良薬は口に苦し」はもともとは慣用仮名遣いの「れうやく」、「れ」の札だったが(字音仮名遣いでは「りやうやく」)、現代仮名遣いの「りょうやく」、「り」の札に配置変更され、元の「り」の札、「律義者の子だくさん」が不採用となったこともある。こういった時代に合わせた変化については賛否両論となっている。


◎いろはかるた

いろはにほへと・・・で始まり、最後の「京」を入れれば、合計48枚になる。

い 犬も歩けば棒に当たる
ろ 論より証拠
は 花より団子
に 憎まれっ子世にはばかる
ほ 骨折り損のくたびれ儲け
へ 下手の長談義
と 年寄りの冷や水
ち ちりも積もれば山となる
り 律義者の子沢山
ぬ 盗人の昼寝
る 瑠璃も玻璃も照らせば光る
を 老いては子に従え
わ 破れ鍋に綴じ蓋
か かったいの瘡(かさ)うらみ
よ 葦(よし)のずいから天井のぞく
た 旅は道連れ世は情け
れ れうやく(良薬)は口に苦し
そ 総領の甚六
つ 月とすっぽん
ね 念には念を入れよ
な 泣きっ面に蜂
ら 楽あれば苦あり
む 無理が通れば道理引っ込む
う 嘘から出た真
ゐ 芋の煮えたもご存じない
の 喉元過ぎれば熱さを忘れる
お 鬼に金棒
く 臭いものに蓋をする
や 安物買いの銭失い
ま 負けるが勝ち
け 芸は身を助く
ふ 文はやりたし書く手は持たぬ
こ 子は三界の首枷
え えてに帆を上ぐ
て 亭主の好きな赤烏帽子
あ 頭隠して尻隠さず
さ 三遍回って煙草にしょ
き 聞いて極楽見て地獄
ゆ 油断大敵
め 目の上のこぶ
み 身から出た錆
し 知らぬが仏
ゑ 縁は異なもの味なもの
ひ 貧乏暇なし
も 門前の小僧習わぬ経を読む
せ 急いては事を仕損じる
す 粋は身を食う
京 京の夢大阪の夢
※江戸版の事例です。地方によって、句は異なります。


◎ひらがな版

いろはにほへと  ちりぬるを
わかよたれそ   つねならむ
うゐのおくやま  けふこえて
あさきゆめみし  ゑひもせす
<漢字版>
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 けふ越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

この歌の解釈としては、色々な解釈があるが、最も一般的な訳としては、下記の通り。

『匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい。』

元々、有為の奥山の"有為"という部分は仏教用語であって、「因縁によって起きる一切の事物」を指すようである。したがって、この歌では、仏教的な無常観を歌った歌と解釈されている。











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