龍の声

龍の声は、天の声

藤田東湖先生「天地正大の気」

2024-10-11 07:13:02 | 日本

「天地正大の気」ここでは、特に、詩の中に詠み込まれた歴史的事象の例示と正気との関係を中心に、以下、簡単に解説してみる。


◎第一段  
初句の「天地正大の気」から、十六句「明徳太陽にひとし」まで


◆「天地正大の気」

天を仰げば、太陽・月・星が悠久の昔から正しく姿を現し、地を見ると人類・禽獣・魚介・草木が無数に、しかも長い長い年月にわたって育成されてきている。それが天地自然の気であり、その働きは真実であつてそこには裏表も計略ない。これが「天地正大の気」である。
正は純正、大は浩洋、気は霊妙な力を言う。その天地自然の正大なる気が、人に具現されたものが即ち「正気」ということになる。
東湖先生は、「序」の中で、「正気は道義の積む所、思孝の発する所なり。」と言はれているが、其の根本は「誠」である。誠によって、人としての道義道徳が正しく践み行なはれる、といふことである。

そこで、


◆「天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつま)る。」

天の恵みである山川風土の美しさから見て、天地正大の気は、わが日本に、純粋に混じり気なく鍾まって来ている。


◆「秀でては、不二の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ」

日本に錘まった正大の気が、抜きんでては玲瓏富士山となって、大空高く悠久の昔から聳えているのである。富土山を仰ぎみた人は、その麗しい、気高い姿に打たれ、このお山と日本の国とを結びつけて、第一の誇りとして来てゐるのである。


◆「注いでは、大瀛(だいえい)の水となり、洋々として八洲を環(めぐ)る」

また、下に注いでは、洋々たる大海の水、大平洋そして日本海などの水となって、日本列島の沿岸をめぐり流れている。これまた、荒磯の岩に砕ける波しぶきとなり、断崖に打ち寄せる怒涛となり、そして白砂青松の渚となって、列鳥沿岸の美しい景観を形づくっている。


◆「發いては、萬朶(ばんだ)の櫻となり、衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(たぐ)ひし難し」

そしてまた、正大の気が、花となつて發いては、枝満開の櫻の花となり、雲か霞かと思われるほどの、華やかな色香の見事さは、他の多くの花も到底比べものにはならない。殊に山桜の自然の美しさは、見事である。
この櫻の花は、我々日本人の品性の象徴として、古来から讃へられて来ている。

本居宣長の和歌に、
「敷烏の大和心を人とはば 朝日ににほふ山桜花」
といふ歌があるが、まさにそれである。


◆「凝っては百錬の鐵となり、鋭利鍪を断つべし」

正大の気が、凝り固まっては鐵となり、その鐵は刀鍛治によって、煉へに煉へられて日本刀となる。しかも、その鋭利な日本刀は、これ亦、鍛へに鍛へられて造られたの鍪(兜)さへも、断ち切るほどである。


◆「(盡)臣皆熊羆、武夫盡く好仇」

天地の正気が人に宿り現はれたものが、「浩然の気」であると、孟子や文天祥は言っているが、東湖先生は、「人の正気」と云う言棄で表現されており、「偽りなく、表裏もなく、光明正大なる気分を言ひ、その根本は、「誠である」と解釈されている。要するに、天地の正気も人の正気も「誠」である、といふことに帰着するわけである。

さて、「(盡)臣」と言ひますのは、「詩経」に出てくる言葉で、忠愛の情が厚く、進んで已まざる臣下という意味で、忠誠の臣を言う。「熊羆」は熊のやうに、羆のやうに、勇猛なることの譬へで、『書経』に出てくる。「好仇」は、「詩経」に出て来る言葉だが、ごく簡単に言へば「好き相手」といふ意味に考へて良いと思う。忠誠の心厚い(盡)臣と、武勇に優れた武夫とが、好き相手として朝廷に仕ヘ、熊や羆の如く強く、事ある時は身を挺して進み、艱難に臨んでは、死を賭して誠を捧げたのであった。


◆「神州誰か君臨す、萬古天皇を仰ぐ」

ところで、このやうに風土が秀れて麗しい国、誠あり勇気あり、義のある人々が住むこの国、日本には、どういふ御方が君臨されてをられるのか。それは申すまでもなく、大昔から天皇を大君と仰ぎ、国民は忠誠を捧げて、変はることはなかったのである。


◆「皇風六合に洽く、明徳太陽にひとし」

御歴代天皇の、仁愛の徳風は、上下と四方あはせて六合にあまねく行き亘り、広大無辺である。光明正大なる御徳は、太陽のやうに、別け隔てなく国民に降り注ぎ、人々はその恩沢に浴しているのである。

以上、第一段で、正気がどのやうに、わが国の国土・国風・国体(国柄)に顕現されているか、といふことを明快に解かれたのであるが、しかし東湖先生は、さらに、日本の歴史の現実を直視されている。