龍の声

龍の声は、天の声

「貞観政要の知恵⑤」

2021-08-22 08:23:36 | 日本

書経に『無益の遊観をなして、有益な徳義を害うことがなければ、治功が成就する。 奇巧の異物を貴んで用物の服食を卑しまなければ、民の財は富足する。犬馬は[有用の 物であるが]その地方の産するものでなければ飼わない。珍美な鳥や奇異な獣は[ただ 耳や目を楽しませる玩弄物に過ぎないから、むだな労費をして]国に畜養しない』とあ ります。陛下は、貞観の初年には、その行動のすべてが上古の聖天子なる堯舜を手本と してその道に従われ、黄金や宝玉を投げ捨て、古代の淳朴質素な生活に返りました。と ころが、近年以来は、珍しい品物を尊重なされ、手に入れ難い品物は、どんな遠方から でも至らぬことはなく、類のない精巧な道具の製作が、やむときがございません。かよ うに、お上が、はでな贅沢を好まれながら、下民の純朴な生活を希望しても、実現でき ることはございません。商工業ばかりが盛んになりながら、農民による作物の豊かな実 りを求めても、得られないことは明らかでございます。これが、しだいに有終の美を全 うすることができない点の第五でございます。

貞観の初年には、賢者を求めることが、まるで、のどがかわいた人が水をほしがるよ うに熱烈に捜し求められ、善人が推挙した人物は、信じて任用し、その長所を取り、常 に[賢者を求めることが]まだ十分ではあるまいかと恐れ気づかっておられました。と ころが、近年以来は、陛下の御心の好き嫌いによって人を用いられます。あるいは、多 くの善人たちが一致して推挙した人を用いても、一人がそしればその人を捨てて用いま- 16 - せん。あるいは、多年、任用して信頼しておりましたのに、ひとたび疑えば、それを遠 ざけてしまいます。そもそも、人には平素の行いがあり、事には成就した事跡があるも のでございます。ですから、人を悪く言う人が、必ずしも誉められている人よりも信用 できるというわけではございません。[それゆえ]積年の善行を、一朝にしてにわかに失 ってはなりません。その上に、君子の心は、仁義道徳を実行し、立派な徳を世に広めよ うとするものであります。が、小人の性質は、人の悪口を言うのを好み、自分個人の利 益だけを考えております。陛下は、詳しくその根源をお調べにならずして、軽々しく、 表面だけで人物の善悪を断定なされております。これでは、正しい道を守る者が日々に 遠ざかり、能力がないくせに地位だけを求めたがる者が、日々に進み出ることになりま す。ですから、人々はただ一時のがれをして失敗さえしなければよいと考え、自己の能 力を十分に尽くす者がございません。これが、しだいに有終の美を全うすることができ ない点の第六でございます。


陛下が初めて皇帝の位に登られたときには、高い位に居りながらも深く民間のことを よく御覧になり、事は清静を第一にし、心には嗜好の欲なく、狩猟の道具を取り除いて、 遊猟の源を断ち切りました。しかしながら、数年の後には、そうした御意志を固く守る ことができず、[昔の話にある]百日間も遊猟に出かけたまま帰らなかった天子ほどでは ございませんが、[昔の天子が]狩猟を行ったときの三駆の制度に過ぎるものがあり、と うとう、あまりに頻繁にお遊びに出かけるのを、人民から非難されたり、狩猟に用いる 鷹や猟犬の貢物は、遠く四方の異民族にまでも及びました。あるいは、狩猟による軍隊 の教習の場への道路が遠いため、朝は暗いうちに宮殿を出、夜になってお帰りになり、 獲物を追って馬を走らせることを楽しみとし、思いがけない災難が起こるかもしれない ということについては、さっぱり気にかけることをなさりません。変事というものは、 思いがけないときに起こるものでございます。[変事が起こってからでは]お救い申すこ とはできません。これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の第七でござ います。

孔子の言葉に『君主が臣下を使うには礼を守り、臣下が君主に仕えるには、真心をも って仕える』とあります。そういたしますれば、君が臣を待遇なさるには、道義として 薄くあってはなりません。陛下が初めて天子の御位につかれた当時には、尊敬の念をも って臣下に対し、君の御恩は臣下に十分に及び、臣下の真情は陛下によく届きました。 それゆえ、臣下たちは、ことごとく、[この御主君のためには]自己のあらん限りの力を 尽くそうと思い、心の中に少しも隠すところがございませんでした。しかし、近年以来 には、[陛下の、臣下たちに対する態度が]軽忽粗略な点が多くなりました。ある場合に は、地方官が任務を受けて地方を治め、地方の事情について奏上のために入朝し、宮中 に参内し、任地の見たところを申し上げようといたしましても、申し上げたくともお顔 を拝見することもできず、お願いしようとしてもお取りあげになりません。そして突然 に、その短所について、小さな過失を詰責なされます。これでは、いかな賢くて弁舌に すぐれた才略のある臣下でも、その忠誠の真心を申し上げることができません。[そのよ うな状態でありながら]上下の心が一致し、君臣が共に安泰であろうことを願っても、 困難ではございますまいか。これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の 第八でございます。

『傲慢の心は長じてはならず、欲望は無制限にしてはならず、楽しみは極めてはなら ず、志は満たしてはならない』[とは礼記にある語で]この四者は、古昔の帝王が、その 身に幸福をもたらした原因となったもので、広く事理に通達した賢者が、深く戒めとし たところのものであります。陛下は、貞観の初年には、一心に努力して怠らず、御自身- 18 - のお考えを曲げて人の意見に従い、いつも、足らないところがあるような謙遜深い態度 でいらっしゃいました。ところが、近年以来、少しばかり、いばってわがままにふるま い、功業の偉大なことを誇りに持って、前代の帝王を軽蔑するお気持ちがあり、すぐれ た知恵の賢明さを自負して、当代の賢者を軽蔑するお心がございます。これは、傲慢の 心が長じたものでございます。それゆえ、なさりたいとお考えになったことは、すべて 思い通りにやりとげてしまいます。たとい、一時的に感情を抑えて諫めに従うことがご ざいましても、結局は御心から忘れてしまうことができません。これは欲望の心が無制 限になったものでございます。陛下のお志は、楽しみ遊ぶことだけにあり、いくら遊ん でも、これで満足したということがございません。現状では、まだそれがすべて政事の 妨げとはなっておりませんけれども、まるっきり政治についての御関心が無くなられま した。これは楽しみが極度に達しようとしているものであります。国内はすみずみでも 安らかに治まり、四方の異民族も本心から服従しておりますが、それなのになお、遠い 辺境の地に兵馬を苦労させ、はるか遠いはての異民族の無礼の罪を責める討伐軍を派遣 しております。これは、御志が、どこまでいっても満足することが無いからでございます。[そういう無益な戦争を起こすについて]陛下のおそばに親しみなれている者は、仰 せにおもねり従って意見を申し上げようとはせず、疎遠の者は、陛下の御威光を恐れて、 進んでお諫めしようとはいたしません。こういう状態が積み重なってやみませんければ、 すぐれた陛下の御徳に傷がつくようになるであろうと思います。これが、しだいに有終 の美を全うすることができない点の第九でございます。

昔、堯舜や殷の湯王という聖天子時代にも、全く災害が無かったというわけではござ いません。しかしながら、それらが非常にすぐれた徳のある帝王であると称されたのは、 終始一貫して、無為無欲であり、災害に出遭えば、憂慮と勤労のあらん限りを尽くし、 時世が平安のときにも自己の欲望のままに驕逸するということがなかったからでありま す。貞観の初年には、毎年毎年、連続して霜害や旱害があり、都を中心とした地域の戸口は、皆[食物を求めて]関外の地に行き、老人や幼児を、背負ったり手を引いたりし て、来往した者が数千人にも達しました。しかし、一戸の逃亡者もなく、一人として、 その苦痛を恨んだ者はございませんでした。これは、陛下が人民たちを、あわれみ養わ れる御心をよく知っていたからであります。それゆえ、飢え死にするようなことがあっ ても二心をいだく者がなかったのでありました。ところが、近年以来になりましては、 人民は政府の労役のために疲れはて、都に近い関中の人民たちの、労役のための疲弊が 最も甚だしゅうございます。そして、工匠の者たちは、非番で休養すべき日にも留めて 働かせ、正規兵たちは、当番の日に、勤務外の仕事に、こき使われます。各地方の産物 を交易して政府がその歩合を取るために、村里までも物資の移動が絶えず、物資を順送 りに送る役夫は、道路に連続しております。何らかの弊害が起これば、僅かのきっかけ でも人民は騒動を起こし易い状態になっております。もし、洪水や旱害のために、穀物 の収穫がなくなったときには、恐らくは人民たちの心は、往年のように安寧でいるわけ にはいかないものと思われます。これが、しだいに有終の美を全うすることができない 点の第十であります。

私は『災禍も幸福も、来るのにきまった入口というのもはなく、みな自分自身が招く ものである』という語を聞いております。人に欠点がなければ、災禍はむやみに起こる ものではございません。慎んで考えまするに、陛下が天下を統御なされますことは、こ こ十三か年、その間に、陛下の徳化は国内に十分に行きわたり、御威光は遠く海外にま でも及び、毎年の穀物は豊作で、学問教育は盛んに興り、軒なみの人民は[すべて善良 で才徳にすぐれ]諸侯に封じてもさしつかえないほどの価値のある者ばかりであり、米 穀は豊富で、水や火と同様に惜しげもなく使うことができました。ところが、今年にな ってからは、天災が盛んに起こり、炎気は旱害となり、それが遠い郡国にまでも被害が 及び、悪者どもが悪事を働き、たちまち、天子のおひざもとに近い帝都にも凶悪な犯罪 者が出没するようになりました。そもそも、天は何も申すことをいたしません。ただ、 天変地異のような現象を垂れて、[天に代わって地上を治める天子に対して]戒めをお示 しになりますものでございます。ですから、[今の災害の現象は]陛下が天の戒めに対して驚懼し憂勤すべき時でございます。もし、天の戒告に対して恐懼し、善人を択び用い てその言に従い、[驕逸の御心を捨てて]周の文王が、小心翼々として、細かく気をくば って慎み深くしたことと同じくし、殷の湯王が、[大旱のときに、自身を犠牲として天に 祷り]自己の政治の罪を反省したことを学び、前代の帝王が治世を完成した原因となっ た方法は、すべて努力して実行し、現今の徳を敗った原因となったものは、よく思い考 えてその悪い点を改め、国民と共に、個人や社会のあり方を更新し、人の耳目を一新し たならば、天子の御位は無窮に伝えられ、天下万民の幸福はこれに過ぎるものはなくな ります。どうして禍害と破滅の心配がありましょうや。

そう考えますると、天下国家の治乱安危というものは、天子御一人にかかっているも のでございます。当今の太平の基礎は、すでに天よりも高く築かれております。[しかし なお、せっかく築いて来ました太平の基礎も、それを途中でやめてしまったならば、今 までの努力もすべて水の泡となり、いわゆる]九仞の功を一簣に欠くおそれがあります。 今は千年に一度だけ現れるという、この聖天子のいます立派な時期であり、このような 時は、二度とは得ることができません。賢明なる君主は、それを実行することができる 能力がございますのに実行なさらず、そのため、私ごとき卑しい臣下が、心が晴れずし て長嘆息いたす理由でございます。私は、まことに愚かで卑しく、物事の機会というも のに十分通達いたしてはおりません。しかし、ほぼ、私の目に触れました点の十条を取 りあげて、聖聴に上聞申し上げました。慎んでお願い申し上げますには、陛下が、私の 間違いだらけのでたらめな言を御採用になり、民間の意見も御参考にしてくださいます ことを。どうか、私のごとき愚者の考えの中にも千慮に一得があって、天子の御職責に 少しでも補いとなる点がございますように。[そのようになることができましたならば、 たとい陛下のお怒りに触れましても]死ぬ日が私の生まれた年であると考え、死刑に処 せられても満足でございます」と。

この上疏文が奏上されると、太宗は魏徴に語って言われた。「臣下たるものが君主に仕 えるには、君主の意旨に順うことは非常に易しいが、君主の感情に逆らって諫めること は、もっとも困難なことである。公は我の耳目や手足となって、いつも思慮深い意見を 献納してくれる。我は今、公から過失の点を聞いたので、必ず改めてみせよう。そして、 どうか有終の美を成しとげたいものである。もし、この言葉に違反したときは、どんな 顔をして公に会うことができようぞ。そればかりか、公の進言以外のどんな方法で天下 を治めることができようぞ。公の上疏を得てから、くり返し十分に研究し、その言葉は 強く、道理は正しいことを深く悟った。そこで、とうとう、それを屏風に仕立て、朝な 夕なに仰ぎ見ることにし、また、史官に命じて記録させた。どうか千年の後の者が、こ れによって、君臣の義を知ってほしいものである」と。そこで、[褒美として魏徴に]黄 金千斤と、宮中の厩の馬二頭とを賜った。

本章だけでも、『貞観政要』の中で魏徴が何を言ってきたかがわかる、 いわば、「総集編」ともいえる内容になっています。 ここで示された十箇条をまとめると、次のようになります。
一、無為無欲 → 物欲が強くなった
二、人民への慈しみ → 平気で労役を課す
三、人民の利益重視 → 自分の欲望に奉仕
四、君子の重視 → 君子敬遠、小人と親密
五、質素な生活 → 贅沢を追求
六、賢者の探求 → 好き嫌い、表面での人物判断
七、狩猟の抑制 → 狩猟を娯楽
八、礼を守った臣下の待遇 → 態度が粗略
九、謙虚な態度 → 尊大な態度
十、災害時にもった憂慮・勤労 → 人民への無配慮

これだけ長々とした厳しい諌言の総集編を渡された太宗が、素直に受 け入れた姿は、やはりさすがと言うべきでしょうか。
この章に続き、第六章で「守文(守成)」の大切さを確認し、さらに、 第七章(本書の最終章)で太宗が、常に諌言を歓迎する旨を述べ、魏徴が、 賢者である太宗は欲望をコントロールできる、したがって、唐朝も永代 安泰であろうと結んでいます。かくして、初心を忘れず常に反省し、他 人の言に素直に耳を傾けることが奥義、ということになりそうです。

が、しかし、実際は、そうもいかなかったようです。
太宗の治世が終わる貞観二十三年までも、まだまだ平坦な道程ではな く、むしろ果たして有終の美を飾れたか疑問の残るともいえる足跡が残 されています。貞観十九年、水陸十万を超える兵力をもって高句麗遠征 したがこれに失敗・撤退、貞観二十一年、二十二年にも兵を出し、「魏徴 がいたならこうはならなかった(「魏徴若し在らば、我をして此の行有 らしめじ」)と悔やむものの、後の祭り。その魏徴に関しても、貞観十 七年に彼が没した際は、太宗自ら碑文を書き碑を作らせたのに、その数 ヶ月後、謀叛に係わる疑いをもち、その碑を倒してしまい、二年後に反 省して、また碑を建て直させたことが史書にも残っています。

それにもかかわらず、『貞観政要』は生き残っています。中国でも、近 時、関連する書がいくつか出版されています。もともと、呉兢が、唐の 中宗に、そして玄宗に献上した書ですが、もし、古来の名言だけを取り 出すのであれば、出典の四書五経の抜粋で十分でしょうし、太宗自身の 思想であれば、『帝範』を読めばわかります。しかし、現実の中で、何度 も同じような諌言を受けつつ、政治を行った人間太宗の姿が生き生きと 描かれていることが、日本でも、かつて、北条政子が和訳させて愛読し たといわれ、徳川家康が出版させるに至った所以でもありましょう。 全四十編が、治世半ばでの反省の話で終わったところに、作者呉兢の 編集の妙も感じられる書物でもあります。





<了>











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