龍の声

龍の声は、天の声

「菅原道真 ①」

2012-09-19 09:29:19 | 日本

平安時代の公家で学者、文人、政治家である菅原道真(すがわらみちざね)について、2回学ぶ。


普段天神様と呼ばれて、学問、受験合格の神さまとして親しまれている神である。受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。受験生はもちろん、その父兄やら関係者までが神社に押し寄せるからだ。受験戦争の社会を象徴する悲しい現象とはいえ、とにかく若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神をおいて他にはいない。
道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文章(モンジョウ)博士となる。以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で右大臣に上り詰めた。ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。
道真の異例の出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまったのである。都を去るとき、道真は

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

と詠んだ。その道真の愛した梅が、あるじを慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという”飛び梅”の伝説は有名である。道真は、太宰府に赴任して2年後の延喜3年に無念の思いを残しつつ亡くなった。延喜5年、門弟によってその墓所に立てられたのが太宰府天満宮である。

道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。

この世に怨念を残して死に、のちに現世に祟りをなす死者の霊を御霊(ゴリョウ)という。日本ではなら時代以降、この御霊が疫病などさまざまな災害をもたらすと考える風潮が盛んだった。そのため御霊を神に祀り上げて、その怒りを鎮めようとして生まれたのが御霊信仰である。道真も最初は、そうした御霊信仰のなかで神さまとしてスタートしたのである。
同時に、雷神との結びつきという点では、雷=雨=農作物の成育という信仰から、農耕神としての性格も強く持っているといえる。さらにいえば、日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるようになったのである。

平安時代から鎌倉初期に作られた「天神縁起」には、天神様を慈悲の神、正直の神として信仰する風潮がうかがえる。そうやって怖さが薄れると人々の関心は、詩歌、学問に優れた道真の人物や業績といった面に向くようになった。道真が空海や小野道風と並び”書道の三聖”といわれて崇められるようになったのもその時期からだろう。こうしてできあがったのが、今日我々が親しんでいる天神様のイメージなのである。

特に学問、文筆の神としての信仰が一般庶民の間にも広く浸透したのは、江戸初期に寺子屋が隆盛してからのことである。江戸の寺子屋の様子を記した文献などには、子供たちが机を並べる教室に、必ず天神様の尊像が掲げられてあったことが記されている。また、正月の初天神に行う天神講の行事は父兄参観の文化祭ともいえるような寺子屋最大のイベントだったし、毎月25日の縁日には近所の天神社へお参りすることが恒例になっていた。今日の受験合格の御利益信仰の走りはこのへんに始まっているのだろう。



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