龍の声

龍の声は、天の声

「天下一人を以て興る」

2012-11-21 07:49:06 | 日本
 
中野 正剛(なかの せいごう)とは、1886年(明治19年)2月12日生まれ。大正・昭和期のジャーナリストであり政治家である。

彼の生い立ちは、旧福岡藩士中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町で質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女である。

福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)、修猷館を卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。

修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社でも行動を共にした。大学時代、下宿を一緒にしていた時期もあった。

学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿した。そして、このことが縁となって、玄洋社を主宰する右翼の頭山満と知り合う。頭山満の玄洋社思想と、大連で活躍する金子雪斎のアジア思想は、中野を支えて行く事になる。

1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。

東條英機首相が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。

そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。

「天下一人を以て興る」と題した演説の締めくくり部分を紹介する。

混迷を極める政治、我が国を取り巻く環境、また国内における問題、これら全てにおいて何一つとして進展が見られない状況を鑑み、その中でも何かを興さなければならないと危機感を抱く憂国の志ある方々には心に留めて欲しいと願う。



「天下一人を以て興る」 

政治が面白くないから俺は黙っていようと言うのは、滔滔たる衆愚のことである。
諸君は大学生ではないか。
一念殉国の誠を尽くそうではないか。・・・
天下悉く眠って居るなら諸君起きようではないか。
この切迫せる世の中に、眠って居るのもうすら眠りであろう。
諸君が起ちて直ちに暁鐘を撞けば、皆醒めることは必定である。
天下は迷わんとする。
言論のみでは勢いを制することはできぬ。
誰か真剣に起ち上がると、天下はその一人に率いられる。
諸君皆起てば諸君は日本の生気を分担するのである。・・・
日本の巨舶は怒涛の中に漂っている。
便乗主義者を満載して居っては危険である。

諸君は自己に醒めよ。
天下一人を以て興れ。





最新の画像もっと見る