龍の声

龍の声は、天の声

「3月3日 ひなまつり」

2016-03-03 08:55:42 | 日本

ひな祭りとは、平安時代の京都の風習だった子供の無病息災を願う上巳の節句(じょうみのせっく)と、ままごとの遊びが江戸時代初期に融合し、女の子のお祭りになったといわれている。

ひな祭りという呼び名は、小さな人形で「ままごと遊び」することを「ひいな遊び」と呼んでいたのが語源である。

はじめは京都の上流階級の家だけの行事だったが、しだいに民間の行事となり、やがては地方へとひろまっていった。

ひな祭りは江戸時代中期にかけて年々盛んになり、人形やひな壇もどんどん派手になっていった。

当時は等身大の人形をかざったひな壇もあったという。

だが、1721年(享保6)に、ぜいたくな生活を規制する当時の江戸幕府によって、ひな人形の大きさは24cm以下とさだめられた。

ひな祭りのことを別名で「桃の節句」というが、それは当時の旧暦の3月3日は、現在の4月上旬にあたり、ちょうど桃の花も開くころだったからである。

また江戸時代、ひな祭りの日には、銭湯で桃の葉をお風呂に入れた「桃の湯」に入るのが流行していた。

昔話の桃太郎が鬼を退治するように、植物の桃には災いをおいはらう効能があると信じられていた。











「在任中改憲表明」

2016-03-03 08:47:10 | 日本
毎日新聞が報道した。
「在任中改憲表明」、参院選争点化確実に。同日選も視野。
愈々、天の時襲来となる。
以下、記載する。



安倍晋三首相が2日、「在任中」の憲法改正を目指す考えを表明し、夏の参院選での争点化が確実となった。首相は衆参同日選も視野に、参院で改憲発議に必要な3分の2の議席を確保する考えで、結果次第では改憲が現実的な政策課題となる。【高橋克哉、横田愛】

「この場に首相として立っている。草案を解説するのは控えたい」。首相は2日の参院予算委員会で自民党の憲法改正草案に盛り込んだ「国防軍」について問われ、こう答えた。改憲への意欲を強調する首相だが、改憲項目に関する発言は控えめだ。1日の衆院予算委でも「どの条文から改正するかは、憲法審査会の議論が収れんすることを期待している」と語った。

夏の参院選は首相の2018年9月までの任期中、最後の参院選となる。首相が改憲をより確かにするため視野に入れているのが衆参同日選だ。与党に追い風が吹いた状態で同日選を行えば、両院の議席の積み増しが期待できる。自民党幹部は「同日選で参院の議席が増えるなら、首相は衆院解散に踏み切るだろう」とみる。

衆参の憲法審では各党が改憲項目についてすでに意見表明した。自民党は憲法審とは別に、参院選後に改憲に前向きな政党だけで協議会を設けることを検討している。改憲発議に必要な3分の2以上の賛成を得られる項目を絞り込み、条文を作成して憲法審の議論をリードする思惑からだ。

一方、憲法改正に慎重な公明党には戸惑いがある。同党の石田祝稔政調会長は2日の記者会見で「『在任中』という言葉はちょっと唐突な感じがする」と発言。「(残り任期が)2年半ぐらいあるが、現実的なのか」とけん制した。

公明党は昨年、安全保障関連法の成立で自民党と歩調を合わせたが、支持者への説明に苦慮。参院選で改憲が争点になるのは避けたいのが本音だ。ただ、改憲は首相の悲願で、「参院選後に国会で議論を深めること自体は否定しない」(幹部)という声もある。

一方で、別の幹部は「野党第1党の民主党も賛成して幅広い合意が得られるようにすべきだ」と主張。首相が改憲内容への言及を避けるのも、こうした慎重姿勢に配慮する側面もありそうだ。

民主党など野党は首相主導の改憲論議に反発を強めている。同党の枝野幸男幹事長は2日の記者会見で「どの条文を変えたいかという話を抜きに『変えたい』というのは論理矛盾だ」と批判した。


「桜田門外の変・水戸浪士たちの刀」

2016-03-03 08:38:10 | 日本

歴史街道誌に「桜田門外の変・水戸浪士たちの刀」について掲載されていた。
以下、要約し記す。


安政7年(1860)3月3日、牡丹雪の霏々〈ひひ〉と舞う中、登城途中の大老井伊直弼(44歳)の行列を水戸浪士らが襲った。桜田門外の変である。この時、井伊大老の首級をあげたのが、水戸浪士たちの中に唯一人参加した薩摩浪士の有村次左衛門〈ありむらじざえもん〉(22歳)で、振るった刀は、薩摩藩士・奈良原喜八郎から借用した関孫六兼元2尺6寸の大業物であったという。では、他の水戸浪士たちの佩刀はわかるだろうか。

まず襲撃を指揮した関鉄之介〈せきてつのすけ〉(37歳)の佩刀は、越前千代鶴2尺3寸、広岡子之次郎〈ひろおかねのじろう〉(21歳)は無銘の新刀2尺5寸6分、稲田重蔵〈いなだじゅうぞう〉(47歳)は前年の秋に金子孫二郎〈かねこまごじろう〉(57歳)から譲られた備前長船永正祐定、そして佐野竹之助(介)〈さのたけのすけ〉(21歳)は水戸鍛冶・勝村正勝(初代)3尺であったという。他の浪士たちも佐野同様、水戸の刀工・勝村正勝の鍛えた2尺8寸から3尺の剛刀を用いた者が多かった。

佐野には、刀にまつわる逸話がある。彼が17歳の頃、徳川斉昭の側小姓に召し出され、勤務するかたわら剣術・砲術に励んでいた。そんな佐野は身長が4尺7寸(約142cm)と小柄ながら、3尺余りの佩刀であったため、同僚から「おぬしにそんな長い刀が抜けるのか」と冷やかされた。すると佐野はものもいわずに抜刀し、一瞬で相手の眉間をかすめて見せたという。

また佐野が砲術家の福地政次郎のもとを訪れていた時、刀工の勝村正勝が、福地が注文していた刀を届けに来た。佐野は刀を手にとり、しばらく眺めた後、「ひとつ試させてもらう」と言って庭へ下り、直径5寸(約15cm)の梅の木をスパリと切って、「この刀は拙者がもらおう。手もとに5両しかないが、梅の木代として置いてゆく」と言って、持って帰った。桜田門外の変で用いた刀がそれである。

襲撃当日。佐野は股引脚絆〈ももひききゃはん〉に黒木綿のぶっさき羽織、白い紐を垂らし、その下にたすきをかけた出で立ちだった。やがて雪の中を、井伊大老を護る彦根藩の行列が堀端をゆっくりと近づいてくると、佐野が早くも羽織の紐を解こうとするので、そばにいた大関和七郎(25歳)が「まだまだ」と押し止めた。

「捧げまるす」と森五六郎(23歳)が井伊家の行列の先頭に直訴するような素振りをし、井伊家の供頭が「何事ぞ」と近寄るや、森はこれを一刀のもとに斬る。それと同時に、黒沢忠三郎(31歳)が大老の駕籠めがけて短銃を放つ。その銃撃音が合図だった。行列見物を装う水戸浪士たちが、3方向から一斉に行列へ斬り込んだ。桜田門に近い堀端は、たちまち怒号と流血の巷と化す。彦根藩の者たちは雪除けに柄袋をつけていたため、とっさに抜刀できず、鞘で応戦する者もいた。そんな中、稲田重蔵が大老の駕籠へ体当たりするごとく飛び込む。しかし駕籠脇には、彦根藩の供目付・河西忠左衛門〈かさいちゅうざえもん〉が二刀を抜いて構えており、稲田を斬り下げた。そこへ広岡子之次郎が駆けつけ、河西と激しく切り結び、傷を負いながらも河西をついに倒す。駕籠脇に倒れていた稲田は最後の力を振り絞って、駕籠に愛刀・長船永正祐定を突き入れ、そのまま絶命した。

一瞬、駕籠周辺の護りが空白となったところへ、左翼から有村、右翼から佐野が飛び込み、有村の関孫六と佐野の勝村正勝を左右同時に駕籠に突き立てる。そして有村が井伊を駕籠から引きずり出し、大老の首をあげた。

闘いはものの数分であったという。井伊の首はあげたものの、浪士の大半も重傷を負っていた。有村は井伊の首を掲げて堀端を去ろうとしたところ、彦根藩の追っ手の一撃を後頭部に受ける。広岡がその追っ手を斬ったものの、2人ともすでに満身創痍で力尽き、付近で自刃。佐野は老中脇坂邸に自訴するが、傷が重く、夕刻に邸内で息絶えた。有村以外の、彼らの佩刀のその後はわからない。