菅家一比古さんから「言霊の華」第三三四号が来た。
以下、要約し記す。
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「我が子を信じています」とか「我が子の無実を信じてます」と親は言う。しかし我が子が犯した罪の事実に直面した時、親は一体何を信じたらよいのか。
そして例えばオウム真理教の麻原彰晃を、いまでも信じている幹部の死刑囚や多くの信者もいる。
「中心帰一」している姿は凄い。しかしそこに欠けているのは叡智の力である。神仏や指導者に中心帰一して宗教が生まれ、宗派が発生する。それが盲目となって多くの悲劇が起きた。
「信じる」とは素晴しいことだと思う。しかし叡智が伴わない「信じる」は不幸なことである。では叡智はどのように生まれるのか。それは「理性」などではない。理性が必ずしも叡智だとは限らない。叡智の源。それは自らの霊魂(みたま)、生命(いのち)なのである。
霊魂(みたま)の発生、誕生は宇宙の元親の愛と光によって成された。これを神の分霊魂(わけみたま)と呼ぶ。霊魂は完全円満、無限、欠けたるものが無い。叡智の塊(かたまり)なのである。
上に中心帰一することも大切だが、自分の霊魂にも中心帰一すべきなのである。霊魂は全てを知っている。だから霊魂に問えば全てが判る。
霊魂(みたま)は愛であり慈悲であり、光である。叡智そのものである。それが直観的に来る。「この指導者変だぞ、危い!」オウムの信者たちが陥った原因がこの叡智の乏しさであった。
冒頭の「我が子を信じる」という意味は事実の云云(うんぬん)ではなく、事実の向こうにある霊魂の真実を信じて上げること。我が子の現象の一つ一つに振り回されずに、霊魂を観じ射通(いとお)すのである。これが「信じる」であり「信じ切る」なのである。
それは対人間関係全てに言えることであり、例えば私が「社員を信じる」と言った場合、目に見える現象を信じるのではなく、その奥にある霊魂の完全、円満さを観じて言う。だからそこに赦しがあり、可能性があり、祝福があり、和が訪れるのである。