龍の声

龍の声は、天の声

「程伊川の性則理」

2015-07-01 07:17:39 | 日本

程伊川は、中国の宋朝時代に活躍した、有名な人物である。
以下、程伊川について学ぶ。



程伊川の「性則理」の説は、人間の性善説とも結び付いている。人間の「性」は、「理」である、ということである。その、「理」というものは、天の宇宙の原理であり、「道」のことであると考えられる。程伊川の考える「道」とは、目で見たり、言葉で表現したりすることのできないものではあるけれども、しかし、その「道」から宇宙全体が発生するものである。程伊川は、宇宙の根本原理として、「道」というものを考えている。そして、程伊川は、「理」が「天」であると考える。「天」を、「道」であるとも考えられるかもしれない。その「天」の「理」が、人間の「性」であると程伊川は考える。人間は、「天」から「性」を受けた。そして、程伊川は、その「性」を「理」であると考えている。人間の性は、天から授かったものであるという考えである。そして、天は善であるので、人間の性も、善であると考える。

人間の「性」の根拠は、「天」なのである。そのため、人間の本来の性質は、善であると考えられる。全ての人間の性質が、善性なのである。人間として生まれた者の、本来の心の性質は、善性であると考える。例外なく、人間の本来の性質は善なのである。人間として、善性を持って生まれたり、悪性を持って生まれたりする区別はありません。天は人間を差別しない、という考えである。天は人間を差別しない。天は、全ての人間に、善性を与えているわけです。そしてまた、「天」は「理」であるとも程伊川は考えている。その「理」が「性」なのである。そのため、「天」は「理」であり、「理」は「性」であると考えられる。つまり、人間の性質は、天から受けたものでありながら、天の性質を有していると考える。人間の本来の性質は、天の性質を持っている。そのような人間の、本来の心の姿は、善なのである。本来の人間は、天使の心を持っている。

しかし、多くの人間の中には、悪人の存在を見ることができる。そのような、悪人の存在に対しては、程伊川はどのように考えるのか。程伊川は、人間の心を、根本的には善であると考えている。そのため、人間の悪の心は、表面的なものと程伊川は考える。

人間の心を悪い心にするものは、「気」であると、程伊川は考える。人間は本来、善性なのである。全ての人間の心が、善性なのである。しかし、「気」の状態が悪いものになれば、人間の心は悪くなる。つまり、人間の本来の心を発揮できれば、善の心が表現される。しかし、「気」の状態が悪ければ、本来の、善性の心が汚く見える。表面的に、汚い心に見える。本当は美しい心が、濁った「気」によって、表面に表れない状態となる。例えばそれは、美しい月が、雲に隠されているようなもの。人間の「性」は、「理」であり、「天」であり、絶対的な、最上の存在である。しかし、「気」には、清濁がある。つまり、「気」は煙のようなものであると考えられる。煙がなければ、遠くまで見える。晴れの日には、富士山を見ることができ、そして、曇りの日には富士山を見ることができない、ということでる。その場合、富士山が「性」であり、富士山を覆い隠す雲が「気」である。つまり、「気」を浄化することができれば、人間の本来の、善性の心を表すことができる。いくら美しい宝石であっても、ほこりをかぶっていれば、表面的には汚いものに見える。

つまり、人間の心を、掃除する必要があるわけです。人間の本来の心は、善性なのである。その本来の姿が、外からでも見える状態にするべきなのである。積もった砂ぼこりを、取り払う。人間の心は、本来の状態であれば、美しい。しかし、問題は、砂ぼこりなのである。砂ぼこりを取り払うことさえできれば、美しい心が表れ出る。心そのものは、善性の心なのです。しかし、「気」の状態が悪ければ、濁って視界が悪くなり、本来の心の姿を見ることができない。そのため、「気」の状態を、常に清明な状態に保ち続ける努力が必要です。それ自体は美しいものであったとしても、汚れが積もっていれば、その本来の美しさを見ることができない。つまり、人間の本来の善性の心を、表現し続けるためには、人間の「気」の状態を、浄化し続ける必要がある。

そのような「気」は、物質的なものに近い存在であると考えられる。「理」の場合は、見ることも、手で触れることも、言葉で表現することもできない存在である。しかし、「気」の場合は、人間の感じることのできる存在であると、考えられる。「気」を、人間は感じることができる。そのため、「気」は、人間が手に触れることのできる、物質的な存在と、近い存在であると考えられる。「理」は、人間では感じ取ることができない。つまり、「理」と「気」とは、異なる存在なのである。「理」と「気」とが異なるのであれば、「性」と「気」とも異なるものであると考えられる。つまり、心の状態と、気の状態とを、区別して考える姿勢が程伊川にはある。「気」は、人間にとって、肉体的なものと精神的なものとの、中間に位置するような存在である。「気」は、人間にとって、純粋に肉体的なものでもなければ、純粋に精神的なものでもない存在である。人間にとって、純粋に精神的な存在は「理」であり、「性」であると考えられる。

人間にとって、純粋な精神こそ、人間の本来持っている、天から受けた「性」なのである。それは、人間には感じ取ることができない。しかし、それを感じ取ることができるのかもしれない。人間が持つ、天から受けた「理」を、感じ取ることができれば、最高なのである。程伊川は、人間の心の「理」を、深く感じ取ることが重要であると主張する。人間は、自分の心の中にある、天から受けた「理」を、深く知るべきであると、程伊川は考えている。「理」は、自分の心の内部に存在する。人間の生きるべき道は、「理」に従った生き方をすることである。その「理」が、人間の心の中に存在する。

つまり、程伊川は、自分の心の外部に、生きるべき道を求めない。自分の心の中に、天の道が存在している。程伊川は、心の内部を、深く知ることに努める。そして、天の道を理解することが大切である。人間の理想の生き方は、天の道に従った生き方をすることである。しかし、天の道を知ることは、人間にとっては、雲をつかむような話である。人間が天の道を知ることは、不可能なことであるのかもしれない。一般の人々の中では、天の道を知る人はいない、と考えられます。程伊川も、果たして、天の道を知ることができたのかどうか、疑問に思える部分である。しかし、程伊川は、天人合一の人生を、理想の生き方であると考えていた。天人合一の生き方は、善性の心を持つ人間であれば、可能である生き方である。人間は、天から受けた性を持っているので、天人合一の人生は可能なのである。

つまり、程伊川は、天を人生の拠り所として生きる。程伊川は、天の生き方を理想と考える。しかし、天の道というものが、人間にとっては最大の謎である。人間は、天の道を知ることに努めて、天の生き方をするべきである。そのために、人間の心の内部を、深く反省する。心の外に、天の道はない、と程伊川は考える。天の道は、「理」である。「理」は「性」です。それは、人間の心のこと。天から、人間は「性」を受けている。天から受け取った自分の「性」を、深く知ること。自分自身のことを深く知る。理想の人生を、自分の心の中に見つける。