龍の声

龍の声は、天の声

「約束した人々と約束の時期の魂の再会」

2015-04-06 08:53:15 | 日本

天下泰平のブログが実に興味がある。
以下、要約し記す。



肉体は滅びても、魂や意識というのは永遠であり、もし、この世の中に「輪廻転生」という“生まれ変わり”の仕組みが確実にあるとすれば、いわゆる前世や過去世の“わたし”もあり、また来世という未来における「わたし」も存在することになる。

本来、すべての“記憶”さえ残っていれば、肉体の死は単なる“休憩”であり、この“わたし”という存在の人生のタイムラインは途切れることなく、この魂が地球にやって来た頃から、はたまた、この魂が地球にやって来る前からもずっと続いていることになる。

「袖触れ合うも他生の縁(そでふれあうもたしょうのえん)」

これは袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものであるという仏教的な意味の考え方だが、この70億人以上もいる地球上の人類の中で、今生のこのタイミングで顔を見るだけでも奇跡的な確率であり、たった一言でも簡単な挨拶、会話をする相手となれば、これはよほどのご縁がある方となる。

一説には、今生で出逢う方の9割以上は過去世においても出逢ったことのある人達のようで、今生における会った回数、一緒にいる時間は距離の近さなどは関係なしに、これまでの人生で1度でも出逢った人々というのは、そのほとんどが永遠に近い魂のタイムラインの中では過去に何度も顔を会わせた人であり、魂同士ではすでに顔見知りの知人であるのかもしれない。

それにも関わらず、知人になる、友達になる、または家族になるほどの相手ともなれば、これは完全に太古の昔から約束したソウルメイトであり、結果的に今生における関係性がどうなろうとも、お互いの魂の成長のためには、今回の人生において側にいることが必須であった大切なパートナーである。

ついつい、日常の忙しさに忙殺されて、普段何気なく起こっている人との出逢い、普段当たり前にいる人の存在を、これが奇跡のような必然的な巡り合わせであることを忘れてしまいがちであります。

時には「なんでこんな嫌な人と一緒に仕事をしなければ…」とか「なんでこんな両親のもとに生まれてきたのか…」とか、思わず不平不満を言いたくなるような苦手に思う相手も周囲には少なからずいるかもしれないが、良くも悪くも大きく感情を動かされる相手というのは、この過去世のご縁の中でも、特に深い付き合いのあった相手である可能性が高く、切っても切れない魂の腐れ縁の人になる。

でも、過去があって今があり、今があって未来があるように、今生において嫌な思いをさせる相手は、過去に自分が相手に嫌な思いをさせていたこともあり、反対に自分自身にとても良くしてくれる相手は、過去に自分自身が相手に良くしていたこともある。

これが「輪廻転生」と同様に、人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという「因果応報」の仕組みであるが、これを単なる過去と現在にだけ結びつけ、起こる不幸な出来事を過去のせいにだけしては元も子もなく、大切なのは、起こる出来事に対する今の自分自身の捉え方であり、それがどんな出来事であっても自然な形で無理なく前向きに包み込めれば、来世に持ち越すこともなく、過去世の自分も癒され、また今生と来世の自分がより輝くものとなると思う。

それにしても、最近は自分自身にとっても、また周囲を見渡してみても、初対面の出逢いにも関わらず「初めまして」の挨拶に違和感があって、心のどこかで「(お久しぶりです)」とお互いが無意識に会話している人々が増えている気がします。

出逢う人々の9割以上が過去世でご縁のあった方であれば、確かにそれは間違ってはいない反応なのですが、特にこの1年~2年ほどの出逢いにおいては、今までにないほど「(お久しぶりです)」と感じる人の数、また感覚の強さも増しており、人によっては、一緒にいると今がいつの時代の誰でいるのかも分からなくなり、まるでタイムスリップしたような感覚になる人もいる。

この「魂の再会」の時代背景は人それぞれだと思いますが、今の時期は、その人の今生において、特に影響を及ぼしている過去生でご縁のあった人達との出逢い、再会が急加速しているように思る。

それだけ「約束した人々」との「約束の時期」が差し迫っているのだと思う。

ただ、過去世の繋がりも大切だが、大切のは今生であり、そして今をより良く生きることが来世にも繋がる。

地球に限らず、また生まれ変わってどこかに戻って来ることを確信していれば、人に対して簡単に意地悪も出来ないし、誰も見ていないからといって悪いことをしたり、余計な業を積むよりは、徳を積んで一日一善以上過ごしていく方が、単純に死んだ後に三途の川を渡りやすくするだけでなく、来世を少しでも楽にというか、楽しく生きることができる秘訣みたいなものだと思う。

個人的には、過去のカルマの解消とか償いという思いを主軸に生きるよりは、なるべく来世に面倒な思いをしたくないという気持ちで今を生きている傾向があって、特に地球再生や人類繁栄を切実に思っているのは、未来の子ども達、未来の人々に明るい世界を残したいという想いがあるのも嘘ではないが、同時に未来人の中には自分も含まれていて、再び自分が舞い戻って来た時に楽しい地球である方が嬉しいからである。

いずれにしても、三次元的な唯物論の価値観にまみれ、今だけ自分だけのエゴの世界に生きるよりは、あなたもわたし、わたしもあなたのワンネスの世界、そして魂は永遠であるタイムラインに意識を合わせて今を生きる方が、きっと今生ももっと周囲の人々と楽に、そして楽しく生きていけるポイントだと思う。










「歴史の痛みを自己の痛みとす」

2015-04-06 08:52:21 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」第三一八号が届いた。
以下、要約し記す。



八才になる息子が歴史に嵌(はま)っている。「坂の上の雲」がBSで再放送されており、録画したものを何度も見ている。残酷な戦闘シーンなどあまり見せたくはないのだが、いずれ「歴史の痛み」が判るときが来るであろうと見守っている。

戦場に散っていった兵士たちの悲惨な姿と共に、それを指揮遂行し、試練の真只中に立たされたリーダーたち、為政者たちの苦悩はいかばかりか。乃木希典大将の第三軍は旅順攻略に手間取り、負傷者四万人と一万五千人の将兵を死なせてしまった。それどころではなく、ご子息二人も戦死した。

もうこのとき乃木将軍は現世に対し、または「生」に対し一切の執着を無くしたと言ってもよい。明治天皇が崩御されたあと、静子夫人と共に自刃し殉死された。当時衝撃的事件だったが、その覚悟と諦念(ていねん)は日露戦争時に既に決定していたのである。

「歴史の痛み」を知らないで戦争を批判する人は多勢いる。その人々はただ戦争の悲惨さだけを取り上げ過去を断罪する。歴史とはそんな単純なものではない。いまNHKで「花燃ゆ」が放映されている。松下村塾の塾生三十数名が日本史の記録に残っているが、その半数が非業の死を遂げている。

久坂玄瑞も入江九一も吉田稔麿も高杉晋作も前原一誠(萩の乱)も、多くの優秀で有望な人財が死んで逝った。死屍累々の上に日本が存在し今日がある。多くの犠牲の上に成り立って来た日本。

私は「歴史の痛み」を自己の痛みにして、先人たちにただただ感謝と申し訳なさで涙に暮れる。歴史の痛み、悲しみを己の痛み悲しみにしてこそ、美しい日本の再建をハッキリと意識でき、平和を論ずることができるのである。