菅家一比古さんから「言霊の華」第三二一号が届いた。
以下、要約し記す。
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よく、真っ正直で正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人がいる。こういう人々のことを「純粋」であるとよく言われる。
現在NHK大河ドラマで放映されている「花燃ゆ」に出てくる、吉田松陰先生をはじめとする松下村塾の若者たちも、まさに「純粋」を極めた人々であった。
しかしひょっとしたらISILやアルカイーダの若者たちも、ナチスドイツの軍人たちの中にも「純粋」な人々が居たからこそ、あのようなことになってしまったのではないもか。
「純粋」が必ずしも正しいとは限らない。でありながらも、「純粋さ」は人間の精神性と人格にとって重要な条件であることは間違いのないことである。
私は常日頃より、「純粋」から「純一」へを提唱している。「日本的純粋」は「純一な心」を指していると思われるからである。正義感や善悪を超えたところに「純一」がある。
兄、仁徳帝に皇位を継がせるため入水自殺した弟「ウジノワキイラツコ」。夫である倭武尊(ヤマトタケルノミコト)を救おうとして、海に身を投げ入れた弟橘比売(オトタチバナヒメ)。歌舞伎の演目の代表的な「菅原伝授手習鏡」「義経千本桜」「先代萩」等の世界。
祖国と愛する人々を守ろうとして散って逝った特攻隊の英霊たち。そこには善悪や正義を超えた無私なる純粋の愛があり、慈愛があり、神や自らの霊魂(みたま)、国家、天皇、皇室への深い「中心帰一観」があるのである。
吉田松陰先生や多くの勤王の志士たちに流れていたものは、寧(むし)ろ鎮(静)かなる無私の、中心帰一の心情だったと思われる。
「純一」とは純粋中心帰一の意味に他ならない。いま、あなたが振りかざしている「正義感」が宇宙の大御心である愛と慈悲に叶っているかどうか問うてみて欲しい。
案外、あなたの狭い純粋さが他者に迷惑をかけていることが多い。私への戒めでもある。