一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
無の境地
何故私達は家でお仏壇に手を合わせるのでしょう。両手を合わせたその瞬間に一瞬ですが無になれるからだと思います。
両手からはプラス、マイナスの磁気が発せられていて知らず知らずのうちに生活しているなかで方位磁石がクルクル回るように安定していないのです。その不安定な状態で私達は日々の日常を活動しています。
心は外部からの様々な刺激で揺れ動きます。明鏡止水など夢のよう。野狐禅のように今日は心静かで悟ったように生きたいと思ってもそうはいきません。ならば山にこもって世捨て人のように生きればいいか。
多分、そんな生活を神仏は一番のぞんでいないでしょう。それではこの世に降りてきた意味がないと。
私は中学生の時の卒業文集に「雲のように自由に生きたい」と書きました。それは高校受験で勉強、勉強で疲れ果てた思いから解放されたかったからです。でも結局、勉強から解放されても雲のように自由には生きれませんでした。息をしていることさえも苦痛に感じられるほど何も束縛することがなくても建前だけの自由などはあり得なかったからです。尾崎豊さんが好きで「自由ていったいなんだ」なんて口ずさんでいてもどこにも見つからなかったのを憶えています。
それが今も同じ。ただ一瞬だけれども神仏に手を合わせた時に心が解放されます。
これが自分。
本当は静かなのが好きなのです。わびさびみたいな禅の世界が。でも今の私にはその状態はほど遠いような気がします。
両手からはプラス、マイナスの磁気が発せられていて知らず知らずのうちに生活しているなかで方位磁石がクルクル回るように安定していないのです。その不安定な状態で私達は日々の日常を活動しています。
心は外部からの様々な刺激で揺れ動きます。明鏡止水など夢のよう。野狐禅のように今日は心静かで悟ったように生きたいと思ってもそうはいきません。ならば山にこもって世捨て人のように生きればいいか。
多分、そんな生活を神仏は一番のぞんでいないでしょう。それではこの世に降りてきた意味がないと。
私は中学生の時の卒業文集に「雲のように自由に生きたい」と書きました。それは高校受験で勉強、勉強で疲れ果てた思いから解放されたかったからです。でも結局、勉強から解放されても雲のように自由には生きれませんでした。息をしていることさえも苦痛に感じられるほど何も束縛することがなくても建前だけの自由などはあり得なかったからです。尾崎豊さんが好きで「自由ていったいなんだ」なんて口ずさんでいてもどこにも見つからなかったのを憶えています。
それが今も同じ。ただ一瞬だけれども神仏に手を合わせた時に心が解放されます。
これが自分。
本当は静かなのが好きなのです。わびさびみたいな禅の世界が。でも今の私にはその状態はほど遠いような気がします。
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