一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
すべては自分自身
何も生きていて楽しくない
よく聞く言葉です。
でもそれは日常だから、非日常ならばそんなこと言ってられません。
私のように非日常の空間に身をおくことが多いと生きていることのありがたさがどれだけかをひしひしと感じるのです。
もし生きられるなら、先生どんなこでもします。
そうお願いをしてくる人より、自分はどんなことがあっても生きるんだという人の方が生き延びる可能性が高いと医師に聞いたことがあります。
最終的には自分自身の生命力にかかっているのかもしれません。
何も生きていて楽しくないは生きていていたい、の表れの思いです。
しかし、楽しくない人生も楽しいよう生きるぞは生きる可能性を広げていくに違いないと思います。
すべては自分自身です。
よく聞く言葉です。
でもそれは日常だから、非日常ならばそんなこと言ってられません。
私のように非日常の空間に身をおくことが多いと生きていることのありがたさがどれだけかをひしひしと感じるのです。
もし生きられるなら、先生どんなこでもします。
そうお願いをしてくる人より、自分はどんなことがあっても生きるんだという人の方が生き延びる可能性が高いと医師に聞いたことがあります。
最終的には自分自身の生命力にかかっているのかもしれません。
何も生きていて楽しくないは生きていていたい、の表れの思いです。
しかし、楽しくない人生も楽しいよう生きるぞは生きる可能性を広げていくに違いないと思います。
すべては自分自身です。
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