一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
価値基準
自分の国では許されていても、他国では許されないことは沢山あります。例えば私たち僧侶が当たり前のように日本において行っていることも他国では奇異の目で見られていることもあるのです。
仏教はお釈迦様が法を説かれて広まっていったのですが、大きな流れとして北から中国そして朝鮮、日本と広まった仏教と、南からスリランカ、ビルマ、タイに広まった南方仏教にわかれます。北の流れを民衆中心の仏教、南の流れを出家、仏道修行者中心の仏教と大まかにはいえるでしょう。南方仏教ではお坊さんが葬式を取り仕切ったり、セレモニーの中心になることはありません。日本ではお葬式といったらお坊さんなのでとても意外に思えます。
修行者にとって一番の悩みである性欲に対しても、日本のお坊さんは妻帯している方がほとんどです。これには世襲制による寺院護持の為との見方もありますが、欲望をむやみに押さえつけず生きるエネルギーに転換する日本的な思想の裏付けがあってのこそだと思います。お釈様は弟子が女性に対する対応を尋ねた時に「見るな。むやみに話しかけるな。話しかける時はつつしんで話しかけよ」と説いています。南方仏教の僧侶たちはけっしてむやみに女性には近づきません。
食事も肉魚を私は普通に食しています。多分、日本ではほとんどのお坊さんがそうして生活しています。本当に精進料理にしようとしたら、現代の日本はかえって生活しずらくなります。だしにはかつおだしが使われている料理がほとんどですし、精進中にうっかり食べたサンドイッチの中にハムが入っていて無理やりトイレで戻したこともあるからです。法事の後の食事の席では、かえって気を使わしてしまう可能性もあります。
だからといって私は日本の僧侶が堕落しているとは思いません。今の日本社会の中で修行のみをしてお坊さんを続けることは不可能だからです。もし、そういった環境になれるのなら多分、精進料理でも妻帯をしなくても普通に生活できるはずです。(私も最初はその生活を望んで仏門に入りました)現代の葬式中心の仏教も、世襲制の寺院運営もお寺を次の世代に遺す為に必要なことでもあるのです。
時代の変遷で戦後にそのような価値基準を見出した日本のお寺社会は今、あらためて岐路にたたされています。仏教離れ、檀家離れが加速してきた時代に新たな策で対応しなくてはならないからです。一般社会の生活が少子化や核家族化、そして低収入化する中、お寺の新たな役割を社会に見出していかなくてはいけないでしょう。
仏教はお釈迦様が法を説かれて広まっていったのですが、大きな流れとして北から中国そして朝鮮、日本と広まった仏教と、南からスリランカ、ビルマ、タイに広まった南方仏教にわかれます。北の流れを民衆中心の仏教、南の流れを出家、仏道修行者中心の仏教と大まかにはいえるでしょう。南方仏教ではお坊さんが葬式を取り仕切ったり、セレモニーの中心になることはありません。日本ではお葬式といったらお坊さんなのでとても意外に思えます。
修行者にとって一番の悩みである性欲に対しても、日本のお坊さんは妻帯している方がほとんどです。これには世襲制による寺院護持の為との見方もありますが、欲望をむやみに押さえつけず生きるエネルギーに転換する日本的な思想の裏付けがあってのこそだと思います。お釈様は弟子が女性に対する対応を尋ねた時に「見るな。むやみに話しかけるな。話しかける時はつつしんで話しかけよ」と説いています。南方仏教の僧侶たちはけっしてむやみに女性には近づきません。
食事も肉魚を私は普通に食しています。多分、日本ではほとんどのお坊さんがそうして生活しています。本当に精進料理にしようとしたら、現代の日本はかえって生活しずらくなります。だしにはかつおだしが使われている料理がほとんどですし、精進中にうっかり食べたサンドイッチの中にハムが入っていて無理やりトイレで戻したこともあるからです。法事の後の食事の席では、かえって気を使わしてしまう可能性もあります。
だからといって私は日本の僧侶が堕落しているとは思いません。今の日本社会の中で修行のみをしてお坊さんを続けることは不可能だからです。もし、そういった環境になれるのなら多分、精進料理でも妻帯をしなくても普通に生活できるはずです。(私も最初はその生活を望んで仏門に入りました)現代の葬式中心の仏教も、世襲制の寺院運営もお寺を次の世代に遺す為に必要なことでもあるのです。
時代の変遷で戦後にそのような価値基準を見出した日本のお寺社会は今、あらためて岐路にたたされています。仏教離れ、檀家離れが加速してきた時代に新たな策で対応しなくてはならないからです。一般社会の生活が少子化や核家族化、そして低収入化する中、お寺の新たな役割を社会に見出していかなくてはいけないでしょう。
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